世界の街角

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石見国益田氏遺跡で考えたこと(2)

2019-02-14 08:11:01 | 石見国

<続き>

ところが御土居遺跡発掘現場から、多くの中国陶磁に混じりベトナムの陶磁が出土し、それが展示されていた。それらは14-16世紀の景徳鎮窯の青花磁器片、多分龍泉窯と思われる青磁磁器片、元の鉄絵瑠璃釉片、15―16世紀の象嵌青磁をはじめとする朝鮮陶磁と、当時の日本の瀬戸、越前、備前の破片、ベトナムの14-15世紀の鉄絵皿(申し訳ないが安南陶磁のみ写真無し)である。

これらは実に興味深い事柄を提供してくれている。

先ずは益田氏の資力を伺い知ることができる。遠くから来た安南陶磁までも入手できた財力である。かつて室町将軍家より始まった対明勘合貿易だが、大内氏は西国の雄になるに従い、それを独占するに至った。当時大内氏と同盟していた益田氏も、それに習い対明貿易により資力を蓄えたことを、これらの出土品の豊富さが物語っている。この居館から2km河下の河口港址から、多量のそれらの陶磁が過去の発掘調査の結果出土している。これは前述のように、益田氏の繁栄ぶりを示すとともに、一般庶民にもそれらの陶磁が普及し始めたであろうことを想定させる。

二つめが本題である。14-16世紀の景徳鎮、安南、朝鮮陶磁は、当時の日本では先進の器であったが、これを手本に類似の焼物がなぜできなかったのか?・・・との単純な疑問である。陶磁史上は秀吉の朝鮮出兵まで待つことになる。鉄絵文様陶磁の日本での初出は、絵唐津と志野の鉄絵文様がほぼ同時期で、16世紀末の桃山時代までくだり、例えばサンカンペーン窯の鉄絵双魚文から約200年後のことである。

これは何を物語るのであろうか?種々のことが考えられるが、それらを箇条書きすると以下のようになる。

①  それなりの頻度で勘合貿易が行なわれており、朝鮮、中国、ベトナムからもたらされる陶磁の量で、必要な需要量に応じていたので、日本で焼造する必要がなかった

②  潜在的な需要はもっと多いが、一種のステータスの意味合いをもっており、価格を意図的に維持していた。更にいうなら渡来の陶磁であることに意味があり、国産することによりその旨味を自ら放棄はしなかった

③  渡来の陶磁を手本に焼造する基礎や技術を持っていなかった

上記①、②は武士等の支配者階級や商人が考えそうなことであるが、彼らは人口構成の一部である。社会としては、それら渡来の陶磁がそれなりの価格で取引されているとすれば、それを何とか真似ようとする動きは必然的に発生するが、結果として上述のごとく秀吉の朝鮮出兵まで待つことになった。とすれば、③の想定が的を射ていると思われる。

<続く>