<続き>
4月12日
チョーラ朝により建都されたポロンナルワだが、チョーラ朝のスリランカ支配は短く、シンハラ王ビジャヤ・バフー1世によって駆逐されている。チョーラ朝を追い出したシンハラ王は、ポロンナルワをシンハラ人の都とした。1070年のことである。
我々はアヌラーダプラから南下して、そのポロンナルワにいる。この都は南インドとの相次ぐ紛争のため、わずか300年ほどで廃都になっている。ポロンナルワを代表する仏教遺跡は、ガル・ビィハラである。涅槃像は長さ14mあるという、他に坐像、立像をあわせて3体の仏像は、大きな1枚の岩から彫られている。
現地に立つと、大きな岩山によくも大きな像を3体も彫ったものと感心するが、その顔立ちは中国、日本の像とことなり、像そのものからくる印象はあまりない。
南インドからの征服者チョーラ朝を倒したシンハラ王は、それまでのヒンズー教色を一掃するかのように多くの仏教建築をここに残した。写真のワタダーゲ゙もその一つである。
中央に坐像があるが、四方に入口があり、ガードストーンとムーンストーン(写真参照)があり、7世紀の建立である。
写真のムーンストーンは寺院の入口の地面に設けられており、ここから先は神聖な場所であり、この前で履物を脱ぎ裸足となって中に入ることになる。このムーンストーンは輪廻の思想を表しているという。一番外側が炎の輪で欲望を表し、その内側が4種の動物が描かれ生命の力と活力を表しており、象が誕生、馬が老齢、ライオンが病、牡牛が死を象徴していて、これで輪廻を表すという。その内側の花輪は愛する心、さらに内側は花をくわえた鳥で純潔を表して、人が命を持つ意味を表すという。最後は蓮花で天国をしめしている。
当日はシーギリアに立ち寄り、キャンディーまで行くことになっており長丁場である。眼前に巨大なシーギリア・ロックが見えてきた。
この岩山には有名なシーギリア・レディーが壁画の如く描かれており、その頂上には宮殿址がある。5世紀カッシャパは家臣にそそのかされ、父のシンハラ王ダッセナを殺し王位を簒奪した。この知らせを聞いた弟モガラナは、いち早く南インドに亡命した。カッシャパはモガラナの復讐を恐れ、このシーギリアの岩山に砦を築き、自らは山頂に宮殿を建てて住んだという。王位に就いたカッシャパは父殺しを悔やみ、善政をしいたといわれている。しかし18年後、南インドで兵を集めた弟モガラナは、カッシャパを攻撃するために立ち上がった。カッシャパも大軍を率いて迎え撃ったが、弟の軍を眼前に戦わずして、自らの命を絶ったという。カッシャパの死後、シーギリアの城塞は僧院として一時使われたが、その後は人の立ち入ることのできない深いジャングルに埋もれてしまった。
シーギリア・ロックの麓を過ぎると、長い階段が続く。この坂の途中から螺旋状の階段を使い、垂直に登ったところにシーギリア・レディーはいた。そこは岩山の中腹で登ってきたところが眼下に見える。
そのシーギリア・レディー、手の届く距離より眺める豊満な美女たち。彼女たちから1500年もの歴史の隔たりを感じることはできない。この画風も仏教と共にインドからもたらされたものであろうか。どの女性も花と大粒の宝石で身を飾っている。日本でいえば高松塚古墳壁画より時代は古い。その壁画が顔前1mもないところに描かれている。悪戯書きや破損の心配はしないのであろうか。日本の文化財保存行政と180度異なる。日本ではカビが生え、24時間空調で特別室まで作って保存し、御蔵入のままである。何かがおかしい・・・。
頂上は360度の眺望であるが、周囲は深いジャングルになっている。頂きの一番高いところに宮殿の址がある。他に大きなプール、番所、舞台の址が残っている。不便さはあったろうが、成る程これなら生活できたであろうと思われる威容であった。
これからキャンディーに向う。その国道11号を南下していると、なんと野生の象がいるではないか、とっさに車中から写した写真を掲げておく。
キャンディー市内の入口から暫くのところに、本日の宿泊先があった。当地もタイと同様仏暦を使っており休日である。そのため宿泊者が多く、現地のスリランカ人であろう人々がゲームに興じ賑やかである。そのホテルはマハウェリ・ピーチホテルと云う。名前は分らないが川のほとりに建っており、部屋の写真は撮っていないものの、感じがよかったと記憶している。
夕刻キャンディー・ダンスを観に出かけたが、ダンスの内容と食事内容が思い出せない。確かダンサーは仮面をつけていたと、かすかな記憶があるが、はたしてどうであったろうか?
<続く>