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文献による北タイ諸窯創始説について(2)

2019-02-18 07:01:52 | 北タイ陶磁

<続き>

スコータイ、シーサッチャナーライ窯の始まりについて、矢部良明氏の著述内容が、それを代表していると考えられるので、「陶磁大系 47 タイ・ベトナムの陶磁」から転載する。

1292年、元朝の遣使向子志が来朝したのにこたえて、スコータイ朝のラムカムヘーン王は、みずから1294年と1299年の2度に渡って元朝を訪れて修好したのは、積極的な外交政策のあらわれであった。2回にわたる表敬訪問の帰路には多くの中国人陶工をつれて帰り、都邑スコータイとシーサッチャナーライに陶窯をおこしたと伝えられている。これがタイにおける施釉陶器窯がひらかれる嚆矢であったという。

たしかに「元史」本紀巻十八には元朝成宗は至元三十一年(1294)に暹国、すなわちスコータイ朝が派遣した使節を迎えたことを記録しているが、スコータイ王みずから入貢したという記事はみあたらない。この年の7月にはスコータイの国王、敢木丁(カムラテン)を招きむかえたのに対し故あってその子弟と陪臣がかわって、謁見の許可があたえられたと書かれている。

ところで1294年の第1回入貢のときには翌年の帰国にあたって50名ほどの磁州窯系の陶工をつれて帰ったこと、1300年には第2次使節団が、龍泉窯の陶工、家族を含めて500人をタイに招致したという伝承は、タイに残る文献資料「タイの年代記集成」第1部に載せられていると聞く。この資料に暗い筆者にとっては、本文批判を行なう力はないが、18、19世紀につくられた年代記であると見なして、この記事の信憑性はうすいと考える研究者もいるようである。

ともあれ、中国の陶工がスコータイ窯の創始にどれほど関与したかは判然としないにしても、中国14世紀の龍泉窯青磁や景徳鎮青花磁が影響を及ぼしたことは遺品が証明している。

関千里氏は、その著「ベトナムの皇帝陶磁」で、矢部良明氏と同じような論述をしておられることを付記しておく。

ここで矢部氏自身が、年代記の信憑性について記述しておられる。つまり2回にわたる表敬訪問の帰路には多くの中国人陶工をつれて帰り(1294年:磁州窯系陶工50名、1300年:龍泉窯の陶工と家族500人)、都邑スコータイとシーサッチャナーライに陶窯をおこしたと伝えられている・・・との記事の信憑性である。

中国の史料である元史の暹国、すなわちスコータイ王国に関する記事を抽出すると以下のようになる。尚、括弧書き内は筆者にて追記挿入した。

●元史巻十二:世祖(九) 世祖十九年六月(至元十六年・1279年)己亥,命何子誌為管軍萬戶,使暹國。

●元史巻十七:世祖(十四) 世祖二十九年(至元二十六年・1289年)廣東道宣慰司遣人以暹國主所上金冊詣京師。

●元史巻十八:成宗(一) 至元三十一年(1294年)秋七月壬子、詔招諭暹國王敢木丁來朝,或有故,則令其子弟及陪臣入質。

●元史巻十九:成宗(二) 大徳元年(1297年)夏四月、賜暹國、羅斛來朝者衣服有差。

●元史巻二十:成宗(三) 成宗四年(大徳二年・1298年)吊吉而、爪哇、暹國、蘸八等國二十二人來朝,賜衣遣之。

●元史巻二十六:仁宗(三) 六年(延祐四年・1317年)春正月丁巳朔,暹國遣使奉表來貢方物。

●元史巻二十八:英宗(二) 三年(至治三年・1323年)春正月癸巳朔,暹國及八番洞蠻酋長各遣使來貢。

●元史/卷二百十列伝第九十七 外夷三 暹國,當成宗元貞元年(1295年),進金字表,欲朝廷遣使至其國。比其表至,已先遣使,蓋彼未之知也。賜來使素金符佩之,使急追詔使同往。以暹人與麻里予兒舊相仇殺,至是皆歸順,有旨諭暹人「勿傷麻里予兒,以踐爾言」。

●大德三年(1299年),暹國主上言,其父在位時,朝廷嘗賜鞍轡、白馬及金縷衣,乞循舊例以賜。帝以丞相完澤答剌罕言「彼小國而賜以馬,恐其鄰忻都輩譏議朝廷」,仍賜金縷衣,不賜以馬。

素人の抽出であるので、漏れが考えられるが、これらと矢部氏の記述内容を比較すると・・・

①  元史本紀巻十八の至元三十一年(1294年)に、スコータイ国のラムカムヘーン王(敢木丁)が朝貢したとの記事は、矢部氏の記述と同じである

②  ラムカムヘーン王自身が朝貢し、成宗に謁見したかどうか・・・これを謁見したと読取るには無理がありそうである。その子弟なり陪臣が入貢したと考えたい。・・・矢部氏はそのように考察されているが、それを支持したい

③  氏によると1294年の第1回入貢後、1300年には第2次使節団・・・云々については、元史には1300年(すなわち成宗六年)に入貢があったとの記録はない

④  朝貢使の帰路、磁州窯系の陶工や龍泉窯の陶工、家族をつれ帰ったとの記事は、元史には記述されておらず、タイの年代記集成がその出典と思われる

以上の4項目が指摘できる。

<続く>