半島南西部の全羅南道栄山江流域に前方後円墳が分布する。それをもって韓国の学者は、前方後円墳朝鮮半島起源説を唱える。何でもかんでも半島が本家で、日本はその真似だとの類の一つである。
(伏岩里古墳群には前方後円墳は認められないが、その古墳群から出土する遺物は、日本の古墳から出土するものと類似している。その類似品の一つが、伏岩里古墳群丁村古墳(方墳)から出土した下に示す金銅製の龍頭飾履である。ココ参照)
(写真出典:羅州国立博物館HP)
(伏岩里古墳群に前方後円墳はみられない)
(霊岩チャラボン古墳、新徳古墳は典型的な前方後円墳である)
(上掲古墳はいずれも栄山江流域に存在する)
全羅南道咸平郡札徳里・新徳古墳は、出土遺物や石室構造から5世紀末から6世紀初に比定される前方後円墳である。その出土遺物は、羨道部と玄室内で鐙・雲珠・帯金具などの馬具類、武器、挂甲・鉄鏃・刀・刀子などの武具類、鉄鎌、金銅冠・金製耳環・金銅履・玉類などの装身具、漆器片、土器が出土している。(話は飛ぶがこれらの出土遺物と日本の古墳から出土する遺物がよく似ている点が指摘される。)これらの事実や他の前方後方墳における埋葬施設の構造や出土遺物から、導き出される築造時期は5-6世紀と考えられている。つまり、前方後円墳朝鮮半島起源説は成立しない。ちなみに日本最古の前方後円墳は3世紀後半の箸墓古墳とされている。
ここで何故、朝鮮半島南部に前方後円墳が存在するのか、と云う謎が残る。
栄山江流域の前方後円墳の時代を遡ってみたい。従来、その流域は大型甕棺墓であったが、5世紀後半に到ってそれは消滅し、かわって石室墳が出現し合わせて前方後円墳が出現した。この変化は百済によるこの地域への進出を意味し、その領域化であると考えられる。
当該全羅南道地域は、子持勾玉や銅鏡など5-6世紀の倭の遺物が出土する。それらの遺物が物語るのは、倭人集団の当該領域との往来である。4世紀以前の百済と倭との国際関係は、七支刀が象徴する。七支刀は表に『泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作』、裏に『先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世』との銘文が刻まれている。これらは一般的に以下のように判読され『泰始四年(268年)夏の中月なる5月、最も夏なる日の16日、火徳の盛んな丙午の日の正午の刻に、百度鍛えた鋼の七支刀を造る。これを以て百兵の兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王(倭王)に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。先世以来、未だこのような刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝と倭に寄せることにした。それ故に、倭王が百済王に賜われた「旨」を元にこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀と共に倭と百済が伝え示されんことを。』・・・ている。
さらに、3世紀には帯方郡から狗耶韓国を経て邪馬台国へ至る交通路は馬韓(当該地)の西海岸であった。3世紀がそうであったように、5世紀も引き続き倭と栄山江流域は交流が在り、倭人集団が定住していた可能性を物語っている。
そこで、この栄山江流域の前方後円墳と伽耶との関係であるが、伽耶には謎がある。一つ目は、金海で3世紀末以降、北方文化をもつ墓が、それ以前の墓を破壊しながら出現する。二つ目の謎は、金海で5世紀初め以降、支配者集団の墓が急に築造されなくなったことである。
これをもって江上波夫氏は、騎馬民族が伽耶から北部九州に移動して、応神天皇の時に畿内に入ったとの説を述べられている。しかし、この4世紀代に移動したことについては、考古学的に証明されていないとして退けられているが、日本の5世紀の古墳から、古い形式の馬具が出土し、古墳の内部構造も変わり、半島から須恵器の技術が九州だけでなく近畿にも入っている。この伽耶の謎と騎馬民族渡来説は繋がっているのではないかと考えている。
またまた時代を遡ってみる。弁辰から伽耶へ移行した頃、日本では前方後円墳が出現する。それに伴い伽耶と倭の間に交易の面で、大きな変化があったのではないか。それは、王権と云うか覇権が九州北部から大和中心の勢力に移行した時期である。京都・椿井大塚山古墳から板状鉄斧や鏃など鉄製遺物が多く出土している。それまで近畿では多くの鉄器は出土していないが、この椿井大塚山古墳の頃から豊富に出土するようになる。それらの鉄器を科学的分析にかけると、伽耶との関係があると云う。
金海の大成洞墳墓群(3世紀末―5世紀初)の木槨墓は北方・扶余族との関連が考えられ、武器を折り曲げて墓に入れる習慣は、北方民族のものである。また内部主体部の木槨墓の丸太をわざわざ焼いているが、これも北方民族の特徴的な習慣であった。もし文化だけの伝播なら、そうした習慣まで入ってくることはなく、民族自体が移動しなければ、そうした習慣は実現しないであろう。
さらに遡ってみる。金海の良洞里遺跡(2-3世紀)から出土するのは、仿製鏡、中広形銅矛、広形銅矛など主に北部九州の遺物である。
これらのことは何を物語るのか。それを物語る前に決定打と思われる一文が『通典』(唐の杜佑が書いた政書)に記されている。285年、扶余は慕容氏鮮卑の攻撃を受け、支配者集団が亡命する。その一部は戻るが一部はそれ以後行方不明である・・・との一文である。
以上のようにみてくると、『朝鮮半島南部の前方後円墳と伽耶の謎』の謎解きは、以下の事が想定される。金海で3世紀末以降、北方文化をもつ墓が、それ以前の墓を破壊しながら出現し、同じ金海で5世紀初め以降、支配者集団の墓が急に築造されなくなったことは、『通典』記載の記事の通りであろう。扶余族が3世紀後半に慕容氏鮮卑の攻撃を受け伽耶の地に逃亡し、在来の旧勢力を押しのけて割拠したものであり、その割拠・支配集団が5世紀初め以降に消息が不明になるのは、その支配集団が南下してきた高句麗の騎馬軍団に対し倭国と連合して戦い、以降弱体化していった背景による結果であろう。
その押し出された集団は、親倭集団であり一派は日本列島に、一派は栄山江流域に逃れたものと考えられる。従って栄山江流域の前方後円墳の存在も説明できることになる。その領域の倭人と列島の倭人は同根であり、畿内で始まった前方後円墳の情報と構築技術は、ほどなく栄山江流域に伝わったものと考えている。謎解きがやや飛躍した感無きにしも非だが。
以下の記事も参照されたい。
ところが前方後円墳の話はそう簡単ではなさそうだ。北朝鮮・鴨緑江河畔の慈江道雲坪里(ウンピョンリ)に存在する前方後円形の積石塚が、前方後円墳の源流かどうか即断できないが、その可能性について森浩一氏は語っている。果たしてどうか。後日追及してみたい。
参考文献)
①幻の伽耶と古代日本 文芸春秋編
②出雲・上塩冶築山古墳とその時代 出雲弥生の森博物館編
③騎馬民族の道はるか NHK出版編
<了>