表記タイトルに関し過去記事にしている。前置きが長いが先ずココを御覧頂きたい。
結論から云えば、10世紀以前のビルマ北部に栄えたピュー族国家・驃国の都・タイエーキッタヤー(シュリークシェートラ)の砲弾型仏塔とランプーンのグーチャン遺跡の仏塔の類似性をもって、それは驃国の影響であろうと記していた。その根拠は驃国でピュー族とモン族(MON:断っておくが中国語で苗(Mhong)族と表記するモン族とは異なる)が同居しており、ランプーンはモン族国家のハリプンチャイ王国の故地であることが、その理由である。
(ランプーン:グーチャン遺跡 砲弾型の仏塔がピューのそれに極似している)
ところが、先日に紹介した『古島琴子著・雲南タイ族の世界』を読んでいると、以下のように記されて(要点を抜粋して記す)いた。
紀元前の中国は前漢の時代、瀾滄江以西の地を哀牢(あいろう)と呼び、多様な系統の住民を一括して『哀牢夷』と呼んだ。後漢に入り哀牢の地は永昌(ヨンチャン)郡が設置された。ヨンチャンとはタイ語のヴィエンチャン(象の城)を語源とし、哀牢夷のなかでもタイ族の祖先は有力であった。哀牢夷の人びとの中で、タイ族の祖先は鳩寮(きゅうりょう)であると云われ僄越(ひょうえつ)は僄と越に分けて僄はピュー(驃)族という説があるが、永昌郡域外すなわち現在の徳宏州からビルマ北部に至る地方のタイ族の祖先はピュー族と接し、その影響を受けていたであろう。
以上が要点である。当該ブロガーはモン族繫がりの類似性と考えていた。その可能性も捨てきれないが、タイ族がピュー族と接触していたことを古島琴子さんは指摘しておられる。古代の雲南からミャンマー西部、タイ北部は多くの民族が入り乱れ、一大文化圏を形成していた可能性を感じさせる話であった。
<了>