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北タイ陶磁の特異性

2019-09-06 07:31:21 | 北タイ陶磁

ブログ開設1500回記事&5周年記念として特集記事を掲載してきたが、3回目の今回は『北タイ陶磁の特異性』なる記事を掲載する。尚、特集記事は今回をもって終了する。

現・タイ王国内の領域において、中世各地に窯場が存在した。大きく区分すると東北部(イサーン)でクメール陶磁を焼造した諸窯と中北部のスコータイ王国下の諸窯、更にはランナー王国下の諸窯に大別される。この中でランナー王国の諸窯は東西の影響を受け、更には独自性を発揮した形跡も認められ、“あそこにあってここにない、ここにあってあそこにない”という特異性が認められる。今回は、その特異性について紹介する。

東南アジア各地にみる横焔式単室窯(Cross-draft kilns)の源流については、アデレード大学時代から一貫して東南アジア諸窯とその焼造陶磁に関して調査・研究をすすめている、ドン・ハイン氏のレポートがある。そのドン・ハイン氏のレポートは”Ceramic Kiln Lineages in Mainland Southeast Asia”とあり、「東南アジアの窯業系統」との意味である。

それによると東南アジアの歴史的な高温焼成窯は、2つの別々の中国の影響源に由来し、それぞれの窯は特定の特性によって定義付けされることを示している。一つ目の影響を受けた地域は、主に東南アジアの東海岸および隣接する内部に沿って見られ、二つ目の供給源の影響を受けた窯は、内陸の河川やその畑地に見ることができる。具体的な地域として一つ目はベトナムとカンボジア、二つ目はタイ、ラオス、ミャンマーである。

ドン・ハイン氏のレポートは、冗長すぎて核心をつかむのに苦労した。

結論を記載すると、横焔式地上窯は2世紀に中国から伝播したとし、横焔式地下窯も10世紀に中国から伝播したとする。いずれも明確な根拠は記載されておらず、“何々と思われる式”の表現であり、ドン・ハイン氏の観念的思索と思われなくもないが、前述の結論のようである。

過去、ハノイの東にあるドゥオンサー(DuongXa)の横焔式単室窯を現地で確認した。それを発掘・調査した故・西村昌也氏は、10世紀後半の年代を与えている。それがラオス北部(旧ランサーン王国のルアンプラバーン及びその近郊)を経由して北タイに至ったと考えられなくもない。

やや歯切れが悪い捉え方だが、タイでの窯業の創業と伝播については、モン(MON)族が大きな役割を果たしたと考えている。モン族の遺跡はタイ東北部(イサーン)でも出土しており、そのイサーンではクメール陶磁の窯が散在している。つまりモン族はクメール陶磁生産の技能も習得していたと考えている。そうであるとすればイサーン、例えばブリラム・ナイジアンの横焔式単室窯の平面プランは長方形の地上式であるのに対し、モン族が創業した可能性が濃厚なシーサッチャナーライ最下層の窯の平面プランは楕円形で地下式との違いがある。この齟齬をどのように理解すればよいか・・・との課題を残しているが故の歯切れの悪さである。

前掲表は“窯のタイプと轆轤の回転方向”をまとめたものである。この表をグーグルアースに表示すると以下の図となる。

ここで論旨に混乱を与えるようで恐縮であるが、津田武徳氏の論文である『東南アジア陶磁にみる轆轤の回転方向』に記載されているのは、ドン・ハイン氏は、横焔式単室窯がインドから東進してミャンマーへ、ミャンマーからタイへと伝わったという仮説を立てているとのことである。津田武徳氏が引用されたドン・ハイン氏の出典を知らないので、この仮説の詳細を知らないが、ドン・ハイン氏は先に紹介した「東南アジアの窯業系統」では、中国からベトナム経由して伝播したとの説と、どのような関係になるのであろうか? 多少理解に苦しむ。君子は豹変するのか?

いずれにしても西方インドの影響有無は、誰かが体系的に調査・分析する必要があるのは確かであるが、轆轤の回転方向に関して僅かな情報を加えて新たに一覧表を作成すると以下の表となる。

これを見ると、シーサッチャナーライ最下層のいわゆるMON陶とラオス北部、更にはチャンパを含むベトナムと朝鮮半島・日本は右回転で、それ以外は中国や西方ペルシャやインド(但し中世の情報ではなく、現代の情報ではあるが)など大多数が左回転であり、北タイの一部であるサンカンペーン、カロン、パーンが左右混在しているのと大きく異なる。

ここで右回転の日本とベトナムをもう少し詳細にみると、日本の5世紀代は左回転が主体で、6世紀に右回転主体となり、7世紀には右回転のみとなった経緯がある。つまり約1世紀の時を経て回転方向が反対に変わったのである。ベトナムについては故・西村昌也氏の報告によると9世紀には左回転であったが、約100年間で右回転に統一したとのことである。つまり轆轤の回転方向は、時間の経過とともに変化しうることを物語っているが、話柄がやや横道に反れた。

本題は『北タイ陶磁の特異性』である。表からもお分かりのようにサンカンペーン、カロン、パーンの轆轤回転方向は、左右混在している点が特異である。しかも北ラオスや北ベトナムに近くなればなるほど右回転の比率が高くなる特徴がある。その様子をグーグルアースにプロットしてみると下のようになる。

北タイ、特にサンカンペーン、カロン、パーンの左右混合は、論証なしにベトナムから北ラオス経由の影響と思わざるを得ない。

しかし、このような北タイにあってもワンヌア、パヤオ、ナーンの各窯は左回転で、一様ではなくバラバラの印象である。ここに北タイ諸窯の特異性を感じることができる。ここでナーンはスコータイ朝との結びつきが強く、ナーン川を介してピサヌロークやスコータイとの往来は、ランナー王都のチェンマイより便利で多かった。ナーンが左回転であることは、スコータイとの往来の多さから理解できるものの、ワンヌアとパヤオについては思い当たる要因が考えられない。

そこで、東南アジア陶磁の装飾文様である魚文との関係を考えてみたい。

この魚文の数に東西の影響が感じられる。先ず三魚文であるが、これは少ない管見ながらクメールと安南陶磁に見た経験がない。この三魚文はペルシャ陶磁にも見ることができる。これはトリムルティーと呼ぶ、三神一体のヒンズー理論に外ならず、この文様は西方の影響と考えられる。現タイ王国の領域では、三魚文は存在するが少数派である。

スコータイの多数派は単魚文で、魚体の幅は広く薄い特徴をもっている。これはトライカムプリアンなる古来の伝承からくるものと考えられ、先住民族も含めたタイ族の特徴が表れている。ランナーでは双魚文が多数派を占める。これは安南を経由した中国の影響と考えられる。

以上、窯の形式と轆轤の回転方向、魚文の数から北タイの特異性について言及してきた。いずれも明確にこうだ・・・との結論を得ることはできないが、北タイは東西陶磁関連技術の交差点であったことは確かである。

<了>

 

 


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