<続き>
字面のみで恐縮である。Huay Lan古窯群の多くの窯址を見たかったのであるが、一部であるとは云へ、その所在を確認できただけでもラッキーであった。タイ政府芸術局は既に調査を終えていると思うが、予算をつけあたり一帯を保存して欲しいものである。
尚、来タイ前の書籍を見ての、サンカンペーン古窯址所在についての事前調査では、Wat Patung窯址は住宅地域に組込まれ破壊されている(これはその通り)。Ton Joke窯址は灌漑池(Huay Lan Reservoir)の建設のため水没(ダム湖建設前の分布状態を筆者は知らないので、明確には記述できないが、前述のようにHuay Lan古窯址として、その一部かどうかは別にして存在しており、更に周辺に散在している印象をもつ)しているとされていた。従って調査可能なのはJam Pa Born古窯址とWat Chiangsaen古窯址とあったが、Jam Pa Bornについては先述のごとく、民家がその上にたっているとのこと。Wat Chiangsaenは見学可能であるが、放置状態に近く、長年の雨により土砂の堆積が始まっている。
というような状況で、来タイ前に日本で得た情報は、必ずしも正確な情報ではない。尚、東南アジア古窯址調査会の1997年報告書が存在し、そこにはフェイ・バーライとフェイ・ブワック・ピン古窯址(いずれも地名からHuay Lan古窯址の一部と考えられるが)の存在が報告されている。その古窯址が地図上のどこにあたるのか、位置が確認できないので、明言はできないが他に多くの窯址がありそうである。
過去サンカンペーン窯創始については、何度か触れてきた。今回Wat Patungの資料館でWat Chiangsaenから出土した、古スコータイ文字の碑文に再会した。当該事項も過去に触れたが再掲する。
碑文には「プラチャオ・略・ラーチャティラートがランナー国王に即位した時、官吏チャオアティチャナーン・バラワスィットムにムーン・ダープルアンの称号を授けた。ダープルアンは申年、小暦850年(1488年)第6の月、月齢8日、プーラオの人々を集め、本堂、礼拝堂、仏塔を建立し、ワット・サーラガンヤーナ・マハンターラームと名付けた・・・王は小暦851年(1489年)ムーン・ダープルアンに540,000ピア(子安貝)の価値の土地を与えた。彼はこの返しに、この寺に同じ価値の土地と、25家族、78人の奴隷を寄進した・・・」と読めるとのことである。
碑文によれば、1491年にムーン・ダープルアンが、官位と欽賜名を授かった記念に建立したものである。これをもって一部の識者は、ムーン・ダープルアンはこの地で窯業を営んでおり、陶工はプーラオ(チェンセーン領内)から連れてきた奴隷であった・・・との説である。しかし、これは碑文には述べられていないので、考えられる創始説の一つであるとも思うが、これを採用すると、矛盾点が多々発生する。
創始説については、別に述べているので、何故サンカンペーンの地であったのか・・・について、論旨を転換する。大方の了解が得られている論考は、サンカンペーン窯の地は、チェンマイ、ランプーン、ランパーンとの商取引のルート上にあったと指摘されている。山塊側からメーパーヘーン川、メーラーン川が流れ、陶磁の運搬に適していた、とも指摘されている。
確かに現地に立ち、周辺の地理を知っていれば、そのように考えるのが妥当である。しかし、それらの川底は浅く、使えたとしても伝馬船程度である。両川はその後メーナムオン川(Mea Nam On)となり、ピン川に注ぐ、このメーナムオン川ないしはピン川の何処かに、荷物の積替地があったと思われ、それが発見できれば、確証が得られることになる。
過去にも触れたが、陶土と釉薬の供給源は近くにあった。メーラーンの川底からは白土、徒歩で半日圏のドイ・サケットには、高濃度の酸化鉄を含んだ赤土が存在している。水は両川が供給し、燃料は周囲から供給できる適地であった。最近のオムコイ山中から出土する陶磁は、従来のサンカンペーン陶磁からは、想定できない出来栄えのよさがあり、これがどの窯で焼成されたのか、現時点で解明できないのが、残念である。
<了>
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