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古墳時時代の七不思議・其の参:装飾古墳の人物絵画に目・鼻・口がないのは何故か

2023-09-12 08:08:05 | 古代日本

過去『古墳時代の七不思議』とのテーマで2回ほど記事をUpDateしていたが、途中で尻切れトンボで中断していた。今回『伽耶展』の合間に3回目として、「装飾古墳の人物絵画に目・鼻・口がないのは何故か」とのテーマで記事にした。

過去の記事は以下の通りである。

1)古墳時代の七不思議・其の壱:謎の前方後円墳形状

2)古墳時代の七不思議・其の弐:大きな馬に小さな人物

埴輪にあって、装飾古墳の人物絵画にないものがある。それは人物の目・鼻・口である。

奈良・石見遺跡出土埴輪 目・鼻・口が表現されている

装飾古墳での人物像の登場は、埴輪に比べて100年遅い。壁画に現れた人には特色がある。目・鼻・口を表現しない、云うなればシルエットで表現している。パターン化が極度に進んだのであろうか。

装飾古墳の登場は4世紀中頃~7世紀前半で、前方後円墳の発生から100年ほど遅れて登場し、約300年間に渡って継続した。古くは幾何学文が描かれていたが、次第に器財文様が加わり、6世紀になると彩色壁画が登場し、6世紀中頃以降は、メッセージ性の強い物語風画題が登場する。その装飾古墳は九州を中心に東北南部まで分布する。

筑紫野市・五郎山古墳 白丸が被葬者で王冠を頂いている 目・鼻・口なし

熊本・チブサン古墳 人物には目・鼻・口なし 王冠を被る

九州では、竪穴式石室に横口を付けたような石室が4世紀末に登場する。その後玄界灘沿岸や九州中部の肥後などに独特の形式の横穴式石室が展開する。近畿の横穴式石室は、九州に贈れること約1世紀、5世紀後半に大阪府柏原市高井田山古墳①で出現したのが最古例である。その構造上の特徴は、九州型と大きく隔たっており、同時期の朝鮮半島の横穴式石室と類似している。その石室は百済に系譜が求められること、そのサイズが百済王族墓(公州市宋山里古墳群)の石室に匹敵している。また熨斗(のし、アイロン)や金箔を挟んだガラス玉などの百済系副葬品、百済では一般的な夫婦合葬という埋葬の仕方から、百済との深い関係が認められる。このように九州では、横穴式石室の思想が大陸から伝播して、さまざまに形状変化した後に定着するが、近畿の場合は定型化した百済中期の横穴式石室をそのまま導入した形跡がある。

高井田山古墳 出典・柏原氏Hp 夫婦合葬墓で百済系

九州の横穴式石室で通常行われていたであろう死者と対面する埋葬儀礼が、黄泉の国神話では死者は穢(けが)れたものとして明確に否定された。つまり黄泉の国神話が日本神話として古事記に採録された背景には、死の穢れの禁忌を普及させ、『飾られた死者』という九州の横穴式石室にこめられた死生観を否定することにあった。その張本人とは失礼な表現ながら、それは継体大王であったと思われる。

九州の横穴式石室が保持していた、祖霊から脈々と受け継がれた系譜的な繫がりを重視する死生観を否定するために、倭王権は百済から全く異なる死生観に立脚した埋葬施設を新たに導入したと考えられる。その背景には、王権自らが死生観を変革する政治的な意図を有していたであろう。その普及を強力に推進したのは、時期的に継体大王の時代と符合する。

伝統的な在地豪族たちにとっての権威の源泉は、祖先から受け継がれた系譜であり、それは継体大王には備わってはいなかった。そこで豪族たちが大事にしてきた系譜的な連続性を断ち切るために、死者と生者を断絶する死のケガレを前提とした舞台装置、つまり畿内型横穴式石室の普及と、装飾古墳における人物の目・鼻・口を封じたのである。人物絵画の目・鼻・口には甦りの象徴であると認識された可能性が高い。九州の装飾古墳で人物絵画を持つのは、いずれも磐井の乱(継体21年:527年―継体22年:528年)後に築造されたものであり、継体大王の禁制と思われるその発令後のことであることが、それを証明しているかと思われる。

ところが6世紀前半から7世紀にかけて築造された大阪府柏原市の高井田横穴墓の線刻絵画には、目・鼻・口をもつ人物像が刻まれている。

高井田横穴墓 目・口が表現されている

磐井が反乱した九州の在地豪族には、禁制の縛りは厳しかったが、畿内とくに高井田横穴墓に対する縛りは、緩慢であったかと思われる。・・・と云うことで、装飾古墳の人物絵画に目・鼻・口がないのは、継体大王の九州在地豪族の死生観を変革する政治的な意図によるものであった。

話しは変わるが、では何故人物埴輪には、目・鼻・口があるのか・・・である。人物埴輪は継体大王登場以前の5世紀中頃に登場し、継体大王が即位した6世紀前半も連綿として作られ続けており、その伝統を中断させる意味もなく、かつ人物埴輪を並べるのは、被葬者の甦りが目的ではなく、被葬者の霊魂を護るのが目的であったことによる。

注)高井田山古墳(5世紀後半)と高井田横穴墓群(6世紀中頃―7世紀前半)

双方は大阪府柏原市の同所に隣接して存在する。先ず高井田山古墳である。初期の横穴式石室を埋葬施設に採用した古墳である。その石室は百済に系譜が求められること、そのサイズが百済王族墓の石室に匹敵していること。また熨斗(のし・アイロン)や金箔をはさんだガラス玉などの百済系副葬品、百済では一般的な夫婦合葬という埋葬の仕方から、百済との深い関係が認められる。

高井田山古墳 夫婦合葬墓は百済の特徴

次の高井田横穴墓である。高井田山古墳誕生から半世紀後に線刻絵画をもつ装飾古墳を含め約160基の高井田横穴墓群が築かれた。これらの横穴墓と先の高井田山古墳の間には、直接的系譜は認められないようであるが、数基の横穴墓から渡来系のミニチュア炊飯具の土器が出土しており、これらの横穴墓群の被葬者の中には、高井田山古墳に葬られた渡来系被葬者と何らかの繫がりがあったものと思われ、それは継体大王と無縁のものではなかった。

<蛇足>

五郎山古墳とチブサン古墳の被葬者と思われる人物の頭には、三又ないしは山形に見える王冠を被る。継体大王の故郷・福井の二本松山古墳から出土した金銅冠も山形である。

二本松山古墳 5世紀後半 出典・文化財オンライン

継体大王像 越前市万葉菊花園 出典・グーグルアース

香川・王墓山古墳 6世紀前半

出雲市・上塩冶築山古墳 6世紀後半

装飾古墳に描かれる三又の王冠は、継体大王が定めたとの見方が出来なくもない。蛇足であった。

<参考文献>

装飾古墳の謎 河野一隆 文春新書

海の向こうから見た倭国 高田貫太 講談社現代新書

幻の伽耶と古代日本 文芸春秋編 文春文庫

 

<其の四へ続く>



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