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龍形の土製品を見て考えた

2022-10-14 07:19:56 | 古代日本

過日、県立古代出雲歴史博物館の『出雲と吉備』特別展で、倉敷市矢部出土の『龍形の土製品』を見た。感動と云えば大袈裟だが、実物を前に種々考えた。ジッと5分間も見つめていたであろうか、次から次へと脳裏をよぎるものがある。

この事については、過去『卑弥呼の時代に龍神信仰は存在したのか?』とするテーマで一文をupdateした。参考にしていただければ幸いである。

その一文では、テーマに掲げたように、“龍神信仰は存在したのか?”・・・と、やや疑問符付であったが、今回の特別展で『龍形の土製品』を見て、龍神信仰は確実に存在していたと、自分なりに確信をもった次第である。先ず、その『龍形の土製品』をご覧願がいたい。

残念ながら、特別展は2点の陶棺以外は写真撮影禁止で、出品図録を購入したが、図らずも古代出雲歴史博物館HPに掲載されていたので、それを借用して上掲したものである。

写真を見ると、龍頭を思わせる形状であるが、我々が想起するほど鼻が長くない。一般的に龍と云えば、鼻が長く鼻鬚が左右に伸びる図を思い出す。下掲した写真の上段は、明時代の官窯青花の「青花龍濤文盤:明・宣徳在銘」である。その下段は我が石見地方の伝統芸能・大蛇(おろち)の神楽衣裳である。かの素戔嗚尊の大蛇退治の場面に登場する。このように下掲2葉の龍・大蛇は鼻が長く、鼻鬚も左右に伸びて我々のイメージ通りである。

明・青花龍濤文盤

石見神楽・大蛇

しかるに『龍形の土製品』は、イメージとことなる。しかしながら左右に線刻の眼を持つ姿は龍といわれれば、なんとなく頷ける姿である。では、この龍頭イメージは、当該土製品のみで特に中国との関連性は、無いのであろうか種々調べてみた。

弥生土器に見るS字文は、龍を簡略化した文様であると識者は指摘している。下掲の写真は、『出雲と吉備』特別展に展示されていた、松江市西川津遺跡(弥生中期~後期)出土の土器文様である。このように蛇行する姿は龍文との見方が一般的である。西川津遺跡は水辺の遺跡である。この『水辺』が重要な意味をもつ。

蛇行文土器 松江市西川津遺跡 弥生時代中期

(特別展には、『人頭龍身』絵画土器片が出品されていた。岡山・足守川加茂A遺跡から出土したもので、ここも水辺の遺跡である。見ると身体は鱗が表現されている。倭人も龍は鱗をもつと認識していた証であろう。)

(龍頭人身絵画土器片 弥生時代後期 特別展図録より)

種々調べると云っても先述のことは、特別展の展示物でみたことである。そこで同時代の文献を調べた。魏志倭人伝である。原文を下に掲げておく。

“倭の男子は大小①となく、皆鯨面文身②している。更に断髪文身③して蛟龍の害を避ける”・・・と記されている。ここで蛟龍であるが、蛟は卵生とされ、龍の幼生とされている。中国の古書「淮南子」には“蛟龍は水居”するとある。龍と水の関係は切れないようである。

さて、断髪文身して蛟龍の害を避けるのは、続く“今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽”にかかり、坊主頭で顔と体に刺青(いれずみ)して、海中の素潜り漁を行うにあたり、大魚やサメの害を避けた・・・と云うことになる。この蛟龍について、三国志の著者・陳寿は、どのような認識で記述したのであろうか。陳寿自身が倭に渡海し、自らの眼で見たものではなく、多分に伝聞を記したであろうが、当時の倭人に蛟龍なる概念が存在したのかどうか。これはズバリ、存在したと考えたい。倭人伝が記す倭人の鯨面文身は、顔型や人物型土製品で存在している。

綾羅木郷遺跡出土鯨面土人形・下関市立考古博物館にて

写真の鯨面土人形は、下関・綾羅木郷遺跡(弥生後期)から出土したもので、他にも多くの顔に刺青を持つ土製品が出土している。魏志倭人伝が記す“鯨面文身”の同時代の土製品が出土していることから、倭人伝が記す“蛟龍”の概念は存在しており、それを示す『龍形の土製品』と考えて、大きな齟齬はないものと思われる。

この特別展で展示されている龍頭を模した『龍形の土製品』は、キャップションによると、S字文様(龍文)を刻む弥生土器や『龍形の土製品』は、川や海などの水辺、井戸からの出土例が多く、水神や海を司る精霊信仰によるものと説明している。西川津遺跡も水辺である。弥生時代後期には龍蛇(龍神)信仰が存在したのは、ほぼ確実であろう。

龍文絵画土器 弥生時代 大阪府立弥生博物館にて

そこで『龍形の土製品』の鼻の短さが気になる。このような形象が、“龍”と認識されていたのかが気になる。

卑弥呼の時代前後の銅鏡は、どうであろうか。卑弥呼との関連で、三角縁神獣鏡の真偽のほどはどうであれ、卑弥呼が魏帝より賜った銅鏡百枚に該当する見解が示されている。神獣鏡ではないが、おなじ三角縁で三角縁盤龍鏡なる龍文様を刻んだ鏡が、山口県下松市宮ノ洲古墳(3世紀)から出土している。

三角縁盤龍鏡 宮ノ洲古墳出土 出典・文化財オンライン

時代は、やや先立つ後漢2世紀の盤龍鏡。その文様が明瞭であり、その写真を使って説明する。

盤龍鏡(後漢時代) 兵庫県立古代鏡展示館にて

上の写真をみると、右に角(一角)をもつ龍、左に虎が造形されている。この龍頭をみると後世のように鼻が、必ずしも長くはない。してみれば、『龍形の土製品』も有りか・・・と思わせる。

この盤龍鏡は1世紀後の西晋時代(4世紀)の盤龍鏡も伝来している。かなりポピュラーな存在だったことが伺われる。

西晋時代(4世紀)盤龍鏡 出典・文化財オンライン

以上、龍神信仰はほぼ確実に存在したと述べて来た。ただし“龍”は中国古代に権威の象徴であったが、そのような認識は倭人にはなかったであろう。先に述べたように祭祀(龍神信仰)の対象に留まっていたと思われる。

注)

①倭の男子は大小:大小とは大人(貴人)と庶民を云う

②鯨面文身:顔と身体に刺青していること

③断髪文身:坊主頭で身体に刺青していること

<了>

 



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