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卑弥呼は何者だ・その2(邪馬台国(倭国)の信仰)

2022-06-13 08:54:07 | 古代日本

<続き>

〇邪馬台国(倭国)の信仰

特に大人(貴人)が亡くなり、墳丘墓や甕棺に埋葬された時期は、墓地の祭祀に重点があったようだ。副葬品に銅剣・銅矛などが入れられていることが、その証である。出雲市大津町字西谷、そこに四隅突出墳丘墓がある。出雲市『弥生の森博物館』は、四隅突出墳丘墓のジオラマ展示をしているが、その墳頂は亡くなった先代王の葬送祭祀の場面を想定復元している。その想定が根拠なしの出鱈目とは思えず、少なくとも四隅突出墳丘墓の時代は、墳墓祭祀が行われていた。それは弥生時代後期末であろう。

弥生時代も中期から後期へ移行すると、墓地と祭祀の場が分化し、墓地より分化した祖霊祭祀の場に重点が移り、銅鐸や祭祀用の中広形や広形の銅剣・銅矛が用いられるようになる。

この祭祀用の青銅器について考えてみたい。定説化するほどの根拠は示されていないようだが、多数論は農耕祭祀用の青銅器だと云う。しかし、この農耕祭祀用の用途については、やや疑問に思える。

弥生前期、甕棺などに副葬品として埋納されていた銅剣・銅矛が、弥生中期以降になって何故農耕祭祀用に用途が変わるのか、それが弥生末期から古墳時代に入ると、またまた副葬品として鉄剣が古墳に入れられるようになる。このような時代の変遷を考えると、青銅器は農耕祭祀に用いられたのだ・・・と云う多数説はホンマかいな・・・と思えてくる。先述(前回記載)のように弥生時代、大人(貴人)が亡くなると、弥生前期も中期・後期も、青銅器を用いて一貫した祖霊祭祀が行われており、途中で農耕祭祀用途に変わることはなかった・・・と、考えられる。

その祖霊についてである。先代が亡くなると、その霊魂は何処へ行くのか。海の彼方の海上他界か、山の彼方か、或いは天空の彼方であろうか。話しは飛ぶが、神南備山(表記は種々存在する:神奈備山、甘南備山、神名備山、神名火山)の文献上の初出を知らないが、『出雲国風土記』には、4箇所(神名備野:茶臼山、神名火山:朝日山、神名備山:大船山、神名火山:仏教山)に登場する。

『神南備』とは、神霊や精霊が宿る御魂代(みたましろ)・依代(よりしろ)を擁した領域を云い、神代(かみしろ)として山体を神体とするとも云う。その神体山の大木や大岩(磐座)に神が依りつくとされている。先に神南備の文献上の初出を知らないと記したが、多分縄文人も『出雲国風土記』が記す『神南備山』の山容をした山に神が宿るとして信仰していたのではないか・・・と考えている。縄文人云々については、当てずっぽうであるが、少なくとも弥生時代は神南備のような神体山信仰は存在した。

島根県出雲市斐川町西谷・神庭荒神谷遺跡は、谷の片側で仏教山(神名火山)を仰ぐ斜面から358本の青銅剣や銅矛・銅鐸が出土した。仏教山は典型的な円錐形の山容ではなく、写真のように牛が横たわるような形の『臥牛形』である。

(出雲国風土記所載・出雲郡神名火山)

手元に全国で『神南備』と称される山を60例調査した論文が在る。この臥牛形の山容の肩部が円錐形に見える山は、60例のうち10例存在すると記述されている。これを『屋根肩タイプの神南備山』と命名されているが、仏教山はこの屋根肩タイプである。神庭荒神谷の青銅器出土地点から見た仏教山の写真を下に掲げておく。成程、神南備にみる三角形状を示している。

(神庭荒神谷より出雲郡神名火山を望む)

重要なことは、その神南備を望む地点から青銅器が出土していることである。祖霊は神南備に降臨し、その磐座に依りつく。その神迎えの祀りを西谷・神庭の地で行ったのである。以下、語呂合わせで恐縮である。西谷は『斎谷』で、神を斎(いつき)祀る谷であり、神庭は『神祀りの庭』である。ついでに四隅突出墳丘墓が在る西谷も『斎谷』である。

滋賀県野洲市の三上山。山頂近くに巨岩を見る。この山を拝する野洲市新庄から銅鐸四口が出土している。麓には頂の磐座から降りて来たと考えられる御神神社が鎮座している。以下、御神神社の由緒である。

“【由緒】社記によると神体の三上山に天之御影命が降臨した後、天之御影命の子孫である御上祝(みかみのはふり)が三上山を神体(神奈備・かんなび)として祀ったのが始まりといわれています。”・・・とある。

つまり、三上山を拝する野洲市新庄は銅鐸を用いて、祖霊神の祭祀を行っていたことになる。

神南備(神体山)と云えば大和・三輪山である。その麓に近い纏向石塚古墳は弥生時代終末期の前方後円墳と云われている。その前方部と云うより古墳軸は三輪山を指し示している。そこからは青銅器は出土していないが、弧紋円盤(こもんえんばん、吉備系の祭祀用遺物)が出土している。やはり石塚古墳(前方後円墳)の前方部で祖霊祭祀が行われ、それは神南備の三輪山を指し示していたのである。

(三輪山)

(纏向石塚古墳出土弧文円盤:木製祭祀用儀器)

纏向石塚古墳の被葬者は不明であるが、出雲族神ではなかったのかと想像させる。古墳軸は三輪山を指す。三輪山には大物主命(大国主命)が鎮まる(宿る)とされている。大和で神南備と称す山は、三輪山以外も出雲族神に繋がる、当然出雲の神南備に宿るのも出雲族神である。

日本古来の信仰、つまり卑弥呼の時代は、アニミズムに繋がる祖霊信仰主体で、神や祖霊は万物に宿るとされていた。その代表が神南備と呼ぶ神体山の巨木や磐座信仰で、それらは何故か出雲族神に結びついており、天照大御神の太陽信仰とは一線を画すものであった。

<続く>

 



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