昨6月17日、県西部益田に所用があり、帰りに萬福寺に寄ってみた。枯山水の石庭を見るためである。縁起によると、建立は平安時代であるが、1026年津波で流出し、本格的に再建されたのは、応安7年(1374)益田七尾城主11代・益田越中守兼見により、以降益田氏の菩提寺となる。その後文明11年(1479)、15代・益田越中守兼尭が雪舟を招き、石庭を築いたという。
総門は、慶応2年(1866)第二次長州征伐・益田の戦いの際、焼失し後年再建されたものである。
本堂は、先述の通り応安7年に益田兼見により建立された鎌倉様式のもので、重要文化財に指定されている。
本堂は重文とは云うものの、やはり雪舟禅師による枯山水の石庭が名高い。銅像造像の経緯は知らないが、半身像が存在する。
その枯山水の石庭であるが、須弥山世界(仏教の世界観)を象徴した石庭であると、パンフレットで紹介されている。
奥の矢印で示したのが須弥山石で、下に拡大写真を掲げておく。
日本での須弥山については、『日本書紀』推古天皇二十年(612年)の項が、須弥山の初出だと云われている。それには・・・是の歳、百済国より化来る者有り、・・・略・・・仍りて須弥山の形及び呉橋を南庭に構らしむ・・・と記載されており、更に斉明天皇五年(659年)に・・・吐火羅の人、妻舎衛婦人と共に来けり。甲午、甘樫丘の東の川上に須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷に饗たまふ・・・と、この一文は我が国最初の庭園が、仏教的世界観を象徴したものであったと述べている。
後世、須弥山式とか九山八海(くさんはっかい)とか呼ばれる築庭様式がある。須弥山石を中心に内側の持双山から最外辺の鉄囲山(てっちせん)までの八山(須弥山を含めて九山)と、間の八海を石と苔で表現する様式である。写真は島根県益田市万福寺の伝雪舟庭園で、前述の須弥山式で作庭されている。中央最も高い位置にあるのが須弥山石である。
噺は飛ぶ。中世の地方豪族益田氏といっても、全国的には知名度は低い。益田氏が全国的に名が知れるのは、明治維新の先駆けである禁門の変で長州の総指揮をとった益田親施(ちかのぶ)である。親施は長州藩永代家老・益田元宣の三男として1802年に生にまれた。
禁門の変で総大将となり、山崎・天王山に布陣したが薩摩、会津に敗れ、敗軍の将として元治元年(1864年)11月11日自刃した。幕末の激動時期、西郷や木戸が喧伝されるが、その初期段階に躍動した一人である。
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