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銅鐸と苗族

2020-12-04 07:49:54 | 日本文化の源流

――荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』―― 番外編

 

以下、荻原秀三郎氏の著作である『稲と鳥と太陽の道』との関りはないので番外編とした。

銅鐸と苗族について語っているのは、大正期の歴史学者・沼田頼輔(ぬまたらいすけ)氏である。

氏は、銅鐸をつかった人たちは、赤道洋流に従って南方大陸方面から渡来した『但馬民族』だと云う。その但馬民族は『苗族』であるとも記されている。

中国西南部からベトナムやタイにかけて棲む苗族がマツリに使用する銅鼓の文様と銅鐸を飾る文様とのあいだに共通するものが多いところから発想されたようである(筆者注:どのような文様が共通するのか、もうひとつ分かりにくいが)。

(2013年に半年間ハノイに滞在し、博物館という博物館は残さず訪館した。その際多くの銅鼓を見た。またバンコクの博物館でも約10点の銅鼓をみた。元来凡庸であるので、銅鼓文様と銅鐸文様の共通性には気付かなかった。銅鼓の代表的文様である鼓面の太陽紋(光芒数には違いがあるが)は、すべての銅鼓に見ることができる。この太陽紋が銅鐸で見ないのはなぜか? 銅鼓→銅鐸と展開したとする論旨は、大いなる疑問である。)

銅鼓は中国南部から東南アジアにかけて紀元前数世紀から19世紀頃まで製作・使用されたマツリに使う青銅製の太鼓である。銅鼓と日本の銅鐸の「土中から掘り出される状態」が類似し、どちらも「楽器にして、かつ神秘的で宗教的なもの」であり、この「両者の類似は偶然の一致と思われない」と論じておられる。この説は、銅鐸は渡来してきた苗族が製作したとする説に他ならない。

荻原秀三郎氏は、苗族が日本に渡来したと論旨展開しておられるが、沼田頼輔氏は銅鼓と銅鐸の類似性をもって、銅鼓を祀り(祭り)で用いる苗族が渡来したと論旨展開されている。

果たして銅鐸はマツリの際に土中から掘り出して用いられたのか?・・・考古学的には証明されていないであろう。何故、銅鼓を携えて渡海するのではなく、銅鐸に変わったのか?・・・それらの論証もほしいが、やや無理筋の論述かと思われる。

他にも何人かの学者が苗族渡来説を唱えておられるが、いずれも確証はなく傍証の類である。苗族が記録を残していない以上、どのような説も推論の域を脱することは難しいであろう。

これでもって、苗族が列島に渡来したとの説の紹介をおえる。苗族が渡海したかどうかは別として、越人の一派が渡来したであろうと考えている。

<番外編 了>

 


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