「赤と黒」と云えば、スタンダールの長編小説を想いうかべる方々も多いかと思われる。今回はナポレオン失脚後のジュリアン・ソレルの物語ではなく、古来の汎アジア的な「赤と黒」の噺である。
安田喜憲教授の著書「稲作漁撈文明」によれば、中国湖南省城頭山遺跡(前4500年)から稲籾のプラントオパールと共に発見された祭祀用土器は、朱色に塗られていたと記されると共に、以下のように記述されている。“太陽と鳥信仰は、8000年以上も前に長江中・下流域で起源した可能性が高い。城頭山遺跡の祭壇は太陽信仰と鳥信仰を背景にした稲籾の豊穣の儀礼をおこなう祭壇であった”・・・とし、さらに“稲作漁撈民にとって赤色と黒色は聖なる色であった”・・・とも記されている。
大林太良氏も同様な見解を示しておられる。それによると、“赤色は聖なる色として原子生活には不可欠な色で、古来赤色を用いることは汎世界的な風習であった”・・・と述べられている。
城頭山遺跡出土の朱色の祭祀用土器出土は前述したが、黒陶と呼ぶ黒色磨研土器が、中国の新石器時代後期の竜山文化(前3000-前2000年頃)の遺跡から出土している。この黒陶は、ロクロを用いており、高度な還元焔焼成により得られる代物である。
城頭山遺跡は現在の湖南省常徳市に在り、そこは漢族からみて南方の蛮地にあり、異民族が割拠する呉越の地に相当する、当時、揚子江下流域から安南に至る地方は、古越人の故地であった。時代は下り春秋戦国の時代、呉越の争乱と漢族の南下圧力により、呉越の民は東や南西に逃れた。東へ逃れた人々は日本列島に、南西に逃れた人々の末裔は南越国(ベトナム)を建国した。古来から古越人の拡散は数派に渡った。
その南越国にほど近い、タイ王国東北部のバンチェン遺跡から、黒陶線刻文広口壷(BC3600―BC1000年)と朱色の文様が描かれた有刻彩陶高脚台鉢(BC1000―BC300年)が出土している。その文様に注目していただきたい。渦巻文と鋸歯文である。いずれも災いを避ける文様である。
倭というか日本列島でも朱色と黒色の土器が出土している。大分県豊後大野市に在る縄文晩期(3200-2400年前)の大石遺跡から黒陶土器が出土した。
朱色土器は、我が出雲の京田遺跡(約4000年前)から赤色顔料が付着した土器が出土した。残念ながら朱一色ではなかった。
出雲市京田縄文遺跡出土土器片
それは弥生時代に入ってから登場する。吉野ケ里遺跡や出雲の四隅突出墳丘墓である西谷3号墓より儀礼用の赤い土器が大量に出土している。
出雲市西谷四隅突出墳丘墓出土朱色土器群(但しレプリカ)
出雲市西谷四隅突出墳丘墓出土黒色土器
この赤と黒は、中国大陸から聖なる色彩として、渡来してきたと考えてよさそうだ。それは、これらの考古遺物が物語ると共に、文献からも証明されそうである。
「論衡」は、後漢の王充が著した。そこには“周時天下大平にして、越裳白雉を献じ、倭人、鬯草(ちょうそう)を貢す”とある。周は紀元前1046年頃~紀元前256年と幅があるが、「論衡」は後世に著されたものであり、どれだけ史実を伝えているか疑問なきにしもあらずであるものの、まったくデタラメであるとの立場には立たないものとする。
そこで「論衡」によれば、“周王朝に倭人が鬯草を貢した”・・・とある。その倭人が日本列島から朝貢したと捉えるのか、それとも越裳と併記されていることから、中国南岸域に接した地の民族とするかのとの課題があるが、後者とするならば、赤と黒は聖なる色彩と認識していた人々であり、その人々ないし後裔が日本列島に渡海し、本貫の地と同様な土器を制作したであろう、尚、前者であれば、朝貢したときに見分したことになる。
鳥越憲三郎氏は更に踏み込んでおられる。氏の著書によれば、前5世紀に呉越にいた倭族は、呉越の相克によって流民と化し、日本列島や朝鮮半島に亡命したと記されている。聖なる「赤と黒」は、かの人々により持ち込まれたと思われる。
<了>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます