世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

石州宮内窯(2)

2016-03-12 08:31:45 | 陶磁器
<続き>

次に工房を見学させて頂くと、丁度「打ち刷毛目」の作業中であった。まことにラッキーである。
宮内窯で用いる胎土は、磁器質に近いほどの白さで、打ち刷毛目の装飾をしてもコントラストの無い文様となる。そこで轆轤引き後半乾きさせ、その上に鉄分の多い泥漿で化粧しており、何やら磁州を思わせる。
その黒化粧土が半乾きすると、上の写真のように絵付け用の轆轤にセットし、轆轤をゆっくり回転させながら、スポイトを軽くつまんで白化粧用の泥漿を「の」の字状に絞り出す。そして写真のように刷毛で皿全面に、泥漿を刷毛掛けする。
毛が柔らかいたのと腕であろうが、器面に刷毛目が残らず均一に刷毛掛けされる。
刷毛掛けによる白化粧が終わった器胎である。次に器面のカーブに沿った曲線をもつ刷毛で、轆轤をゆっくり回しながら、その刷毛を上下に動かしながら器面をなぞっていく。
そうすると、写真のように鎬状の文様が現れてくる。見込み中央は刷毛が当たり続けるため、下の黒化粧が透けて見える。
打ち刷毛目の作業が終わった皿である。当該作業は3-4分であろうか、まことにテンポの良い作業であった。
宮内窯では、胎土が白く黒化粧してからの、打ち刷毛目作業であり上述の手順となるが、小石原皿山の「打ち刷毛目」は、轆轤引き後即白泥漿を刷毛により生掛けし、その手で打ち刷毛目の細工をしている。
その打ち刷毛目の実演がYouTube「小石原焼陶器市、刷毛目実演。」で公開されているので、御覧願いたい。宮内窯と小石原では手順がことなるが、双方共に素焼き後の作業ではない点が共通である。

そこで、先日紹介したサンカンペーンの打ち刷毛目と思われる盤、写真ではあるが見て頂くと下の2点は「打ち刷毛目」であろうとの見解である。
           (出典:Ceramics of Seduction)
        (出典:インターネットオークションの部分写真)
         (出典:バンコク大学付属東南アジア陶磁館)
飛び鉋の技法で可能かどうか質問すると、回答できる見識を持たないとのこと、誠実な陶工さんである。小石原や小鹿田皿山の飛び鉋にも、このような放射状の文様を見ないので、これは片切の刃物であろうか?更なる追及が必要である。




                                  <了>


石州宮内窯(1)

2016-03-11 07:28:03 | 陶磁器
インターネットで「打ち刷毛目」を検索していると、小鹿田皿山や小石原皿山以外にも、打ち刷毛目の装飾をしている焼物を、焼成している窯が存在していた。それは我が田舎の近くで、広島県から県境を越えて流れる、中国太郎とも呼ばれる江川の河口の江津市に在る。
中程度の規模の登り窯で、見学当日は窯詰め用の製品つくりに忙しかった。窯の横には匣が積み上げられている。
先ずショールームを見学させてもらうと、3尺盤(約90cm)が眼に飛び込んできた。
陶工の方に質問した訳でもなく、手で持ち上げたわけでもないが、優に30kgは超えるであろう。このように大きな盤は、焼き歪ができて大変だと思われる。見込みは打ち刷毛目で装飾されている。
脇の方には、沢山の焼物が並んでいる。見ると盤・皿の類は、ほとんど打ち刷毛目の装飾が施されている。中には飛び鉋と併用の装飾もある。

直上の写真の盤は、見込みに打ち刷毛目、カべットから口縁にかけては飛び鉋で装飾されている。
次回は、打ち刷毛目の装飾技法について紹介するとともに、サンカンペーンの打ち刷毛目に似た盤の見立てをして頂いた。その見立ての結果を紹介したい。




                                 <続く>






サンカンペーンの刷毛目盤

2016-03-10 08:11:42 | サンカンペーン陶磁

先ず、英字書籍「Ceramics of Seduction」に掲載されている写真を御覧願いたい。これは、サンカンペーンの「打ち刷毛目」ではないか?

刷毛により白化粧された、サンカンペーンの鍔縁盤である。しかしながら、所謂カべットには放射状の筋が表れている。この放射状の筋を持つ盤は、サンカンペーンには多い。これは鎬文に似ているが、純粋な鎬文ではなく疑似鎬文である。その疑似鎬文の盤は、別途紹介する予定であるが、ここでの話題は上掲写真の刷毛目文様についてである。
この手の刷毛目文様を、九州の小鹿田皿山や小石原皿山で云う「打ち刷毛目」であろうが、果たしてそうであろうか?・・との疑問がないでもない。その疑問とは・・・、
1.白化粧に意識するか、しないかは別として、刷毛目が現れるのは磁州窯からであるが、そこに打ち刷毛目は見ない。
2.高麗朝末期、李朝初期の14世紀半頃に刷毛目茶碗や粉青沙器が発祥するが、打ち刷毛目は見当たらない。
3.古武雄と呼ばれる松絵文二彩唐津がある。それは壺などの胴に白化粧し、そこに刷毛目とニ彩で松の絵堂々と描いている。その初出が何時であるか知識を持たないが、焼物の発祥そのものが、16世紀後半から17世紀の初めであることから、それを遡ることは有得ない。しかし、そこには「打ち刷毛目」は見ない。
4.小鹿田皿山や小石原皿山の「打ち刷毛目」はせいぜい、大正末期から昭和初頭からである。
5.そのような「打ち刷毛目」の装飾技法が、14世紀のサンカンペーンに現れる意外性は何であろうか。
写真の盤が「打ち刷毛目」であるかどうか、両皿山の陶工に聞いてみるのが良いであろう。しかし、九州は遠い。ネットで種々検索すると、田舎にもあるではないか。それは、石州宮内窯と云う。過日訪ねてみたので、次回それについてレポートする。




「陶磁器・パヤオ」シリーズ・38(最終回)

2016-03-08 07:08:16 | 北タイ陶磁
<続き>

<パヤオと中国・安南陶磁>
●陶磁と技法の伝播ルート(2)
ゲアン(乂安)省ビン市(榮市)からカー川沿いに、チュアンソン山脈を左にみて国道7号を遡り、ラオスのポンサワンを経由して、ランサーンの都ルアンプラバーンに至るルートがメイン・ルートであったであろう。上写真の白抜きルートである。このカー川はラオスのシェンクワーン県を源に国境を越へ、ゲアン省を流れバクボ(北部)湾に注いでいる。
中世1479-1480年、黎聖宗はランサーン王国へ侵攻する際、ゲアン山地からラオスに兵を入れ、シェンクワーンのタイ族を服属させ、そこに鎮寧府七県を置いた。つまり侵攻のメインルートであった。
カー川沿いに遡り、途中その支流に沿って遡るとナムカンの国境検問所に至る。ラオスの国境検問所はシェンクワーン検問所である。この検問所からポンサワンまで130km、ルアンプラバーンまで330kmとある。グーグル・アースはその国境を紹介している。

上はベトナムのナムカン検問所。前を流れる川は東流し、カー川に合流する。下はラオスのシェンクワーン検問所。
ポンサワンを経過するとランサーン王国の都・ルアンプラバーンまで200kmである。そのルアンプラバーンには、横焔式単室窯が存在すると、leave onesfootprintsなるブログ(www.yaguhiro.nut/leave/04rao1229.html)が紹介している。
ルアンプラバーンから北タイへは、メコンの水運である。チェンマイ民族博物館は、ランナー王国時代の交易図を展示している。
ルアンプラバーンからチェンコーンへは船で遡上し、そこからパヤオやチェンマイへ南下したのである。
雲南から北タイへの繋がりが見えない中、安南からはランサーン王国経由でランナー世界へ繋がっているように思われる。中国・安南陶磁と北タイ諸窯との関係を検討してきた。北タイ諸窯は独自性が目立つと、従来から思ってきたが、周辺諸国の影響も大きいことが分かってきた。
余談ながら、ランサーン王国時代の北ラオス陶磁は不明な点が多いが、いずれ若き研究者により、明らかになっていくものと思われる。

「陶磁器・パヤオ」と題して、シリーズ展開したが当該38回目をもって終了とする。北タイ陶磁愛好家に多少なりとも情報提供できたとすれば、幸甚の至りである。

 

                              <了>


「陶磁器・パヤオ」シリーズ・37

2016-03-07 09:25:00 | 北タイ陶磁
<続き>

<パヤオと中国・安南陶磁>
●陶磁と技法の伝播ルート(1)
中国や安南から北タイへの中国陶磁や安南陶磁の運搬そのものや、陶磁装飾技法・焼成技法はどのようなルートで伝播したであろうか?
交易船により、インドシナ半島を南下し、タイ湾を北上してチャオプラヤー川口やアユタヤで川舟に積替えピン川、ナム川、ヨム川を遡上し、北タイに至った事例は皆無とは云えないが、地勢をみるにインドシナ半島内陸ルートによったものと思われる。
現代の内陸ルートの様子が、関千里著「ベトナムの皇帝陶磁」に以下のように記述されている。それは、Page7「はじめに」いきなり“それは、1999年に始まった。ベトナムの北部で新たに陶磁器が発掘され、国外へと運ばれたのである。出土品は五彩と青花のみで、これらは国境をなす西の高地を越えて、ラオスを通過し、メコン河を渡った。それを受け入れたタイの町は、主にノンカーイと北部のチェンコーンであったが、時にラオスからミャンマーを経由して北部のメーサイへ着いたこともあった。”・・・と記されている。
時代は中世にさかのぼる。大越国の黎聖宗(レ・タイントン)は、チャンパ征服に続いて1479年(洪徳10年)8月、諸将に命じて18万人の軍勢が国境の西側に接する哀牢、盆蛮(盆忙)、老撾に五方面から侵攻した。当時ルアンプラバーンに都を置く、ランサーン王国とランナーへの侵攻である。
               (出典:ウィキペディア)
ここで注目すべきは、中世に北ベトナムからランサーンやランナーへ至るのに、五のルートがあったことである。その中の一つは第一次インドシナ戦争でベトナムとフランスが戦い、フランスが敗北したディエンビエンフーの戦い。そのディエンビエンフーを南下するルート、更にはタインホアから国道15号で西行し、ラオスのサムヌアに抜けるルートも主要ルートであるが、次回ゲアン省のルートに注目して検討したい。
         (出典:タイ語系民族の居住地分布・上田博之氏著)
話は横にそれる。山川出版社刊「東南アジア史Ⅰ大陸部」に以下の記述がある。”近年の言語学者たちの研究では、南西タイ諸語(現タイ王国)話者たちの源郷を、今日のベトナム東北部と中国の広西壮族自治区の境界付近とみなす仮説が有力視される。そして、漢人やキン族(ベトナム人)の圧迫を受けた「タイ人」は7世紀頃から動乱状態にあり、11世紀に起こったとみられる集団的大移動の態様は、むしろ東から西方ないし南西方向への移動であったと考えられている。”・・・とある。
タイ族は元の南下圧力に追われ、雲南から南下したものとばかり考えていた。この記述には、仮説の出典が記載されておらず、信憑性が課題であるが、これが史実であるとすれば、タイ族自身が東南アジア内陸部を横断して、陶磁に関する技法を持ち込んだと想定すれば、拡大解釈であろうか?
  (ハノイ民族学博物館のタイー族高床式住居:近年タイでは見られなくなった)

                              <続く>