世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

哈尼族の棚田

2019-02-22 08:07:56 | 東南アジア少数民族

過日、TBSの『世界遺産・紅河哈尼(ハニ)族の棚田群』なるTV番組を視た。哈尼族はタイでアカ族とよぶ少数民族と同族である。

番組を視ていると、山の頂上(標高2000M)直下に集落を営み、そこから谷底に向けて、気が遠く成るほどの段数の棚田が形成されている。

棚田は完全な湿田で、乾田にすると土壌が脆くなり崩壊するので、湿田にしているという。但し稲刈りの時は作業がしにくいので、一時的に水を抜くと放映していた。その湿田で栽培しているのは赤米とのこと。

稲刈り後、水位の下がった田圃で、鯉のような魚を獲っていた。年中水を張っているので、鯉科の魚を養殖しているようだ。雑草の成長を妨げ糞は肥料になり、まさにエコと環境維持の農法である。

その魚で動物蛋白を摂取していることになる。且てはタイ人も、田圃に淡水魚を放していた、乾季には水が引くので田圃に穴をほり、田圃から水が引けば、その穴に逃げ込むようにしていたのである。北タイの山岳少数民の銀飾に、やたら魚がモチーフとして使われているのは、このように日常生活で関係の深い理由によるものと考えている。北タイ陶磁に魚文が多いのも、同じ理由によるものであろう。

<了>

 


文献による北タイ諸窯創始説について(5)

2019-02-21 09:29:56 | 北タイ陶磁

<続き>

ここで元・明史に記録されたランナー王国関連記事と年代記類の記録を以下に比較しておくが、年代記には元寇に関する記述が少ないことがわかる。 

(*年代記のみならず、北タイ各地に残る碑文、刻文より、定説化している即位年)

尚、元史は本紀のみ記述した。以下は筆者の想像である。元史、明史によると元の南下圧力は凄まじいものであったと思われる。戦乱下での物品や工芸的技術や技能が、伝播したと想定できる(但し雲南のみではなく大越国(安南・ベトナム)から北ラオス経由の技術伝播も存在したであろうと考えている)。それは13世紀末ー14世紀初頭にかけてサンカンペーンで焼造が開始されたとの説と符号する。

・・・但し2019年現在の今日に考えることは、北部諸窯創業の陰にはクメールやモン(MON)族の陰が見え隠れすると考えており、課題としてはそれらモン族と南下、西南下したタイ族との関連を調べるのが、今後の課題と考えている。

尚、以下の事柄について付記しておく。チェンマイ年代記によると、ティローカラート王(1441-1487)は、アユタヤ王国との戦いのみならず、ランサーン王国を陥落した大越国(黎朝)を逐ったほか、西双版納やサルウィン川以西に遠征して多数の住民を連行し、ランナー地域に移住させた。但しこの15世紀にはすでに開窯がおこなわれており、創始というより第二波の技術移転であったか?

このチェンマイ年代記の記述が、サンカンペーン窯創始の出典になっているものと思われるが、これを採用すると先述のように矛盾が存在する。結局、サンカンペーン窯成立過程は、タイの年代記を含めて文献史学のみでアプローチするには、やや無理がありそうである。ここは地道ながら考古学的に窯址調査と陶磁の発掘調査に期待し、それが進展することを希望する。

<了>

 


文献による北タイ諸窯創始説について(4)

2019-02-20 07:48:18 | 北タイ陶磁

<続き>

サンカンペーン窯について考えてみたい。タイ北部窯の泰斗、クライシー・ニマンへーミン氏やJ/C/Shaw氏は、第9代・ティローカラート王(1441-1487)の戦乱の時に、スワンカーロクの陶工達が、ランナーに連れてこられサンカンペーン窯が始まったとしている。その根拠は前述の年代記類であるが、そのような要因も考えられると思うが、最近の科学的分析により、13世紀末から14世紀を示す陶磁がその初期であるとの結果と整合しない。

年代記類の信憑性については、前述の通りであるので、中国側の史料である元史、明史のランナー王国(八百媳婦)関係の記事を抽出すると、以下となる。尚、漢文の素養はなにもないので、誤訳が多々あることを容赦願いたい。

●元史巻十七(本紀十七:世祖十四)

 世祖二十九年八月、詔不敦、忙兀魯迷失以軍征八百媳婦國。

 世祖29年(至元29年:1292年)8月、(八百媳婦國は)詔を受けず忙兀魯(蒙古人武将?)を失ったので、八百媳婦國(ランナータイ)に軍征した。・・・当時の八百媳婦は、現在のタイ北部のタイ族勢力で、後のランナー王国である。

●元史巻十九(本紀十九:成宗二)

 元貞二年十二月戊戌,立徹裏軍民總管府。雲南行省臣言:「大徹裏地與八百媳婦犬牙相錯,今大徹裏胡念已降,小徹裏復占扼地利,多相殺掠。胡念遣其弟胡倫乞別置一司,擇通習蠻夷情狀者為之帥,招其來附,以為進取之地。」

 元貞2年(1296年)12月戊戌、徹裏軍民総管府を現・西双版納景洪市に設立した。雲南行省府の官吏が云うには「八百媳婦(ランナー王国)では、確執が絶えない。大徹裏の胡念が降った。小徹裏は再び、その地を占拠し、互いに殺掠した。胡念は弟の胡倫を雲南行省府に遣わし、別に一司(監督機関か?)を置くように乞うた。雲南行省は蛮夷の事情を知る択通習なる者を責任者と為した。」

●元史巻二十(本紀二十:成宗三)

 元貞四年十二月、遣劉深、合剌帶、鄭祐將兵二萬人征八百媳婦,仍敕雲南省每軍十人給馬五匹,不足則補之以牛。・・・五年春正月庚戌,給征八百媳婦軍鈔,總計九萬二千余錠。

 元貞4年(1298年)12月、雲南行省は八百媳婦(ランナー王国)の劉深、合剌帯、鄭祐を征すべく将兵2万人を遣わした。10人の兵毎に馬5匹を与え、不足は牛でこれを補った。・・・5年(1299年)1月、八百媳婦軍征のための資金として9万2000錠が支給された。尚、元貞4年は存在せず、大徳2年に相当する。

●元史巻二十一(本紀二十一:成宗四)

 元貞七年三月乙巳,以征八百媳婦喪師,誅劉深,笞合剌帶、鄭祐,罷雲南征緬分省。

 元貞7年(1301年)3月乙巳、雲南行省府の軍征により八百媳婦は師を失った。劉深は殺害され、合剌帶、鄭祐は鞭打ちの咎めを受けた。雲南行省は軍征により緬地が省より分かたれるのを免れた。・・・緬とは何処か、調査していないが現・ミャンマー北部のシャン州あたりと考える。尚、元貞7年は存在せず、大徳5年となる。

●元史巻二十三(本紀二十三:武宗二)

 武宗二年十一月庚辰朔,雲南行省言:“八百媳婦、大徹裏、小徹裏作亂,威遠州谷保奪據木羅甸,詔遣本省右丞算只兒威往招諭之,仍令威楚道軍千五百人護送入境。・・・三年春正月壬寅,詔諭八百媳婦,遣雲南行省右丞算只兒威招撫之。

 武宗2年(至大2年・1309年)11月庚辰朔、雲南行省府の官吏が云うには、八百媳婦、大徹裏、小徹裏が戦乱となった。次が上手く読解できないので略。その次は、詔勅により右丞の算只兒を遣わし之を招き諭した。尚、威を示すため楚道軍1500人が(右丞を)護って彼の地に入境した。・・・3年1月壬寅、八百媳婦を(雲南行省に)招き諭した。また右丞の算只兒を遣わし威をもって之を鎮撫した。

●元史巻二十四(本紀二十四:仁宗二)

 皇慶元年八月辛卯,敕雲南省右丞阿忽臺等,領蒙古軍從雲南王討八百媳婦蠻。

 皇慶元年(1312年)8月、雲南行省府の右丞である阿忽台等々に詔勅が降り、彼らは蒙古軍を預かり雲南王を従えて、南蛮の八百媳婦へ軍征した。

●元史巻二十五(本紀二十五:仁宗二)

 延祐二年冬十月癸卯,八百媳婦蠻遣使獻馴象二,賜以幣帛。

 延祐2年(1315年)10月癸卯、南蛮の八百媳婦は使いを遣わし、象二匹を献じた。よって幣帛を下賜した。・・・これはランナー王国から朝貢があったことを記録しているが、何処に朝貢したのか、雲南行省府なのか元朝の都に対してであったのか、もうひとつよく分からないが、賜るとあるからには帝からの下賜とも考えられる。

●元史巻三十(本紀三十:泰定帝二)

 泰定三年四月甲寅,八百媳婦蠻招南道遣其子招三聽奉方物來朝。泰定三年秋七月己巳,八百媳婦蠻遣子哀招獻馴象。

 泰定3年(1326年)4月甲寅、南蛮の八百媳婦を南道に招じた。(八百媳婦は)その子招三を朝廷に派遣し、産物を献上した。・・・これは来朝とあるからには、京師に入朝したものと思われる。泰定3年(1326年)7月己巳、南蛮の八百媳婦は子(王子)の哀招を遣わし、象を献じた。・・・これは雲南行省に対してのものか、京師に朝貢したのか判然としない

●元史巻三十二(本紀三十二:文宗一)

 致和元年十一月癸酉,八百媳婦國使者昭哀,雲南威楚路土官胒放等,九十九寨土官必也姑等,各以方物來貢。

 致和元年(1328年)癸酉、八百媳婦國は昭哀を使者として、雲南の威楚路や九十九洞は、その士官等が来貢して物産を献じた。・・・ここで元史巻30には、招三、哀招を遣わしたとある。この巻32には、昭哀が使者となったとある。これは兄弟であろうか?

●元史巻三十三(本紀三十三:文宗二)

 天歴二年二月,雲南行省蒙通蒙算甸土官阿三木,開南土官哀放,八百媳婦、金齒、九十九洞、銀沙羅甸,鹹來貢方物。

 誤訳の可能性もあるが、概略以下と考える。天歴2年(1329年)2月、雲南行省の蒙通、蒙算(いずれも現・雲南省西双版納からミャンマー北東部)を支配する士官などと、八百媳婦等の5ヶ国(地域)が来て、物産を貢いだ。

●元史巻六十一(志第十二:地理三)

 徹裏軍民總管府,大德中置。大德中,雲南省言:「大徹裏地與八百媳婦犬牙相錯,勢均力敵。今大徹裏胡念已降,小徹裏複控扼地利,多相殺掠,胡念日與相拒,不得離,遣其弟胡倫入朝,指畫地形,

 元史巻十九と同一内容記事であるが、大徳年(1297-1307年)の出来事としている。

●元史巻六十三(志第十五:地理六)

 大德六年,雲南行省右丞劉深征八百媳婦,至貴州科夫,致宋隆濟等糾合諸蠻為亂,水東、水西、羅鬼諸蠻皆叛,劉深伏誅。

 大徳6年(1302年)、雲南行省の右丞は八百媳婦へ軍征し、貴州の科夫に至り、諸蛮の反乱の為、宋隆済などを糾合した。水東、水西、羅鬼などの諸蛮が皆反乱した。劉深を殺害した。・・・この劉深なる者がよく分らない。元史巻20、21にでてくる劉深と同一人物なのか?であれば巻21では、元貞7年(元貞7年は存在せず大徳5年、つまり1301年)3月に乱の咎で殺害されている。当該巻63の記述にある大徳6年に誅殺された劉深とは、年号が異なるが同一人物かどうか?

●元史巻九十九(志第四十七:兵二)

 武宗至大四年十二月,雲南八百媳婦、大、小徹裏等作耗,調四川省蒙古、漢軍四千人,命萬戸囊加部領,赴雲南鎮守

 武宗至大4年(1311年)12月、八百媳婦と大、小徹裏が乱れた。四川省の蒙古と漢族の軍隊4000人を派遣し、万戸に命じて軍をたすけ、その地を鎮守させるため赴かせた。

●明史巻百八十(列傳第六十八)

 弘治元年,土官陶洪與八百媳婦約為亂,洪乘間翦滅。

 弘治元年(1488年)士官の陶洪に八百媳婦の乱(西双版納への侵入)を収めさせることにした。陶洪は間に乗じて乱を殲滅した。

元史、明史からランナー王国に関する記述を抜粋したのが上述である。漢文知識はゼロなので、誤訳が多々あると思っており、御免なさいである。これをみると、元史巻17、19、20、21、23、24、61、63,99はタイ族国家(地域)への元の軍征南下について、巻25、30、32、33はランナー王国からの朝貢、明史巻180は明のランナー王国に対する乱の平定記録である。

記事の中味であるが、至元29年(1292年)から皇慶1年(1315年)までは、軍の南征について、特に1298年12月、元は2万人の軍隊をランナーに派遣したとある。兵站補給はどうであったろうか。想像をたくましくすれば、南下行軍の途中で徴兵されたものの中に、手に職を持つ人々が含まれていたと考えられなくもないが、それは元史に記録されていない

巻25、30、32、33はランナー王国から元に対する朝貢記事で、年代は延祐2年(1315年)から天歴2年(1329年)までである。そこには象を献上し王子が入貢したとある。その王子の帰国に際して、工芸職人を帯同したとも想像できるが、このことも元史に記録されてはいない

巻25では象の献上の見返りに、幣帛を下賜されたとある。上述の工芸職人の帯同を許可されたかどうかは別として、下賜品のなかに元染めや龍泉青磁、雲南青花が含まれていたとの想像は許されるであろう。現にタイ西部山岳地帯からは、これらの陶磁が大量に発掘されていることから明らかである。

 

<続く>

 

 

 


文献による北タイ諸窯創始説について(3)

2019-02-19 07:54:37 | 北タイ陶磁

<続き>

元史をみると、後述するランナー王国と違い、スコータイ王国と元朝は友好関係にあったと思われる。それは前回(文献による北タイ諸窯創始説について・2)の各本紀や列伝に記述されている内容の多くが、遣使や朝貢に関することから、伺うことができる。

その遣使、朝貢は13世紀末から14世紀初めにかけての記事である。考古学上のスコータイ、シーサッチャナーライ窯開始時期との関係はどうであろうか。

世界陶磁全集16巻「南海」には、プジョン・チャンタウェイ氏が「タイの陶磁」と題して寄稿しておられるが、スワンカーロク陶磁は中国の影響を受けているという。それは・・・

1.    端反りの青磁皿などで、元時代の龍泉窯で焼造されたものに似ており、玉壷春瓶や瓢形瓶もそのようだと指摘している

2.    文様への影響は、蓮花文様で蓮の種類や形式は元青磁に施された蓮花文様と同じであると指摘している

それは、スコータイ時代に製陶の技術を教えるためにタイ国へやってきた中国人陶工によって、これらのやきものが焼造されたことを示唆しているようである。・・・と指摘している。

また、スワンカーロク陶磁はベトナムの影響も指摘している。見込みに花文様を釉下鉄絵の技法で描いた白釉陶の形式と文様にとくに著しくあらわれている。ただし、スワンカーロクは安南とは違って、その素地は薄く、高台内には褐色の鉄銹を塗っていない。スワンカーロクが安南に似ているということは、ベトナムの陶工が生活費をかせぐためにスコータイにやってきたことを物語るかもしれない。

この記事は必ずしも、陶窯の開始時期について述べている訳ではないが、その関連について記述しており転載した。

スコータイ、シーサッチャナーライ両窯についての見識を筆者は持たないが、考古学上の発掘にて、その創始時期は確定しているものと思われる。したがってタイの年代記集成の記述内容の証明は、考古学上の事例を積上げる必要があり、単に焼造された陶磁の器形、文様の類似性のみならず、陶窯の構造や窯道具迄含めた、体系的な考察が求められる。

 

<続く>

 


文献による北タイ諸窯創始説について(2)

2019-02-18 07:01:52 | 北タイ陶磁

<続き>

スコータイ、シーサッチャナーライ窯の始まりについて、矢部良明氏の著述内容が、それを代表していると考えられるので、「陶磁大系 47 タイ・ベトナムの陶磁」から転載する。

1292年、元朝の遣使向子志が来朝したのにこたえて、スコータイ朝のラムカムヘーン王は、みずから1294年と1299年の2度に渡って元朝を訪れて修好したのは、積極的な外交政策のあらわれであった。2回にわたる表敬訪問の帰路には多くの中国人陶工をつれて帰り、都邑スコータイとシーサッチャナーライに陶窯をおこしたと伝えられている。これがタイにおける施釉陶器窯がひらかれる嚆矢であったという。

たしかに「元史」本紀巻十八には元朝成宗は至元三十一年(1294)に暹国、すなわちスコータイ朝が派遣した使節を迎えたことを記録しているが、スコータイ王みずから入貢したという記事はみあたらない。この年の7月にはスコータイの国王、敢木丁(カムラテン)を招きむかえたのに対し故あってその子弟と陪臣がかわって、謁見の許可があたえられたと書かれている。

ところで1294年の第1回入貢のときには翌年の帰国にあたって50名ほどの磁州窯系の陶工をつれて帰ったこと、1300年には第2次使節団が、龍泉窯の陶工、家族を含めて500人をタイに招致したという伝承は、タイに残る文献資料「タイの年代記集成」第1部に載せられていると聞く。この資料に暗い筆者にとっては、本文批判を行なう力はないが、18、19世紀につくられた年代記であると見なして、この記事の信憑性はうすいと考える研究者もいるようである。

ともあれ、中国の陶工がスコータイ窯の創始にどれほど関与したかは判然としないにしても、中国14世紀の龍泉窯青磁や景徳鎮青花磁が影響を及ぼしたことは遺品が証明している。

関千里氏は、その著「ベトナムの皇帝陶磁」で、矢部良明氏と同じような論述をしておられることを付記しておく。

ここで矢部氏自身が、年代記の信憑性について記述しておられる。つまり2回にわたる表敬訪問の帰路には多くの中国人陶工をつれて帰り(1294年:磁州窯系陶工50名、1300年:龍泉窯の陶工と家族500人)、都邑スコータイとシーサッチャナーライに陶窯をおこしたと伝えられている・・・との記事の信憑性である。

中国の史料である元史の暹国、すなわちスコータイ王国に関する記事を抽出すると以下のようになる。尚、括弧書き内は筆者にて追記挿入した。

●元史巻十二:世祖(九) 世祖十九年六月(至元十六年・1279年)己亥,命何子誌為管軍萬戶,使暹國。

●元史巻十七:世祖(十四) 世祖二十九年(至元二十六年・1289年)廣東道宣慰司遣人以暹國主所上金冊詣京師。

●元史巻十八:成宗(一) 至元三十一年(1294年)秋七月壬子、詔招諭暹國王敢木丁來朝,或有故,則令其子弟及陪臣入質。

●元史巻十九:成宗(二) 大徳元年(1297年)夏四月、賜暹國、羅斛來朝者衣服有差。

●元史巻二十:成宗(三) 成宗四年(大徳二年・1298年)吊吉而、爪哇、暹國、蘸八等國二十二人來朝,賜衣遣之。

●元史巻二十六:仁宗(三) 六年(延祐四年・1317年)春正月丁巳朔,暹國遣使奉表來貢方物。

●元史巻二十八:英宗(二) 三年(至治三年・1323年)春正月癸巳朔,暹國及八番洞蠻酋長各遣使來貢。

●元史/卷二百十列伝第九十七 外夷三 暹國,當成宗元貞元年(1295年),進金字表,欲朝廷遣使至其國。比其表至,已先遣使,蓋彼未之知也。賜來使素金符佩之,使急追詔使同往。以暹人與麻里予兒舊相仇殺,至是皆歸順,有旨諭暹人「勿傷麻里予兒,以踐爾言」。

●大德三年(1299年),暹國主上言,其父在位時,朝廷嘗賜鞍轡、白馬及金縷衣,乞循舊例以賜。帝以丞相完澤答剌罕言「彼小國而賜以馬,恐其鄰忻都輩譏議朝廷」,仍賜金縷衣,不賜以馬。

素人の抽出であるので、漏れが考えられるが、これらと矢部氏の記述内容を比較すると・・・

①  元史本紀巻十八の至元三十一年(1294年)に、スコータイ国のラムカムヘーン王(敢木丁)が朝貢したとの記事は、矢部氏の記述と同じである

②  ラムカムヘーン王自身が朝貢し、成宗に謁見したかどうか・・・これを謁見したと読取るには無理がありそうである。その子弟なり陪臣が入貢したと考えたい。・・・矢部氏はそのように考察されているが、それを支持したい

③  氏によると1294年の第1回入貢後、1300年には第2次使節団・・・云々については、元史には1300年(すなわち成宗六年)に入貢があったとの記録はない

④  朝貢使の帰路、磁州窯系の陶工や龍泉窯の陶工、家族をつれ帰ったとの記事は、元史には記述されておらず、タイの年代記集成がその出典と思われる

以上の4項目が指摘できる。

<続く>