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サンカンペーン窯について考えてみたい。タイ北部窯の泰斗、クライシー・ニマンへーミン氏やJ/C/Shaw氏は、第9代・ティローカラート王(1441-1487)の戦乱の時に、スワンカーロクの陶工達が、ランナーに連れてこられサンカンペーン窯が始まったとしている。その根拠は前述の年代記類であるが、そのような要因も考えられると思うが、最近の科学的分析により、13世紀末から14世紀を示す陶磁がその初期であるとの結果と整合しない。
年代記類の信憑性については、前述の通りであるので、中国側の史料である元史、明史のランナー王国(八百媳婦)関係の記事を抽出すると、以下となる。尚、漢文の素養はなにもないので、誤訳が多々あることを容赦願いたい。
●元史巻十七(本紀十七:世祖十四)
世祖二十九年八月、詔不敦、忙兀魯迷失以軍征八百媳婦國。
世祖29年(至元29年:1292年)8月、(八百媳婦國は)詔を受けず忙兀魯(蒙古人武将?)を失ったので、八百媳婦國(ランナータイ)に軍征した。・・・当時の八百媳婦は、現在のタイ北部のタイ族勢力で、後のランナー王国である。
●元史巻十九(本紀十九:成宗二)
元貞二年十二月戊戌,立徹裏軍民總管府。雲南行省臣言:「大徹裏地與八百媳婦犬牙相錯,今大徹裏胡念已降,小徹裏復占扼地利,多相殺掠。胡念遣其弟胡倫乞別置一司,擇通習蠻夷情狀者為之帥,招其來附,以為進取之地。」
元貞2年(1296年)12月戊戌、徹裏軍民総管府を現・西双版納景洪市に設立した。雲南行省府の官吏が云うには「八百媳婦(ランナー王国)では、確執が絶えない。大徹裏の胡念が降った。小徹裏は再び、その地を占拠し、互いに殺掠した。胡念は弟の胡倫を雲南行省府に遣わし、別に一司(監督機関か?)を置くように乞うた。雲南行省は蛮夷の事情を知る択通習なる者を責任者と為した。」
●元史巻二十(本紀二十:成宗三)
元貞四年十二月、遣劉深、合剌帶、鄭祐將兵二萬人征八百媳婦,仍敕雲南省每軍十人給馬五匹,不足則補之以牛。・・・五年春正月庚戌,給征八百媳婦軍鈔,總計九萬二千余錠。
元貞4年(1298年)12月、雲南行省は八百媳婦(ランナー王国)の劉深、合剌帯、鄭祐を征すべく将兵2万人を遣わした。10人の兵毎に馬5匹を与え、不足は牛でこれを補った。・・・5年(1299年)1月、八百媳婦軍征のための資金として9万2000錠が支給された。尚、元貞4年は存在せず、大徳2年に相当する。
●元史巻二十一(本紀二十一:成宗四)
元貞七年三月乙巳,以征八百媳婦喪師,誅劉深,笞合剌帶、鄭祐,罷雲南征緬分省。
元貞7年(1301年)3月乙巳、雲南行省府の軍征により八百媳婦は師を失った。劉深は殺害され、合剌帶、鄭祐は鞭打ちの咎めを受けた。雲南行省は軍征により緬地が省より分かたれるのを免れた。・・・緬とは何処か、調査していないが現・ミャンマー北部のシャン州あたりと考える。尚、元貞7年は存在せず、大徳5年となる。
●元史巻二十三(本紀二十三:武宗二)
武宗二年十一月庚辰朔,雲南行省言:“八百媳婦、大徹裏、小徹裏作亂,威遠州谷保奪據木羅甸,詔遣本省右丞算只兒威往招諭之,仍令威楚道軍千五百人護送入境。・・・三年春正月壬寅,詔諭八百媳婦,遣雲南行省右丞算只兒威招撫之。
武宗2年(至大2年・1309年)11月庚辰朔、雲南行省府の官吏が云うには、八百媳婦、大徹裏、小徹裏が戦乱となった。次が上手く読解できないので略。その次は、詔勅により右丞の算只兒を遣わし之を招き諭した。尚、威を示すため楚道軍1500人が(右丞を)護って彼の地に入境した。・・・3年1月壬寅、八百媳婦を(雲南行省に)招き諭した。また右丞の算只兒を遣わし威をもって之を鎮撫した。
●元史巻二十四(本紀二十四:仁宗二)
皇慶元年八月辛卯,敕雲南省右丞阿忽臺等,領蒙古軍從雲南王討八百媳婦蠻。
皇慶元年(1312年)8月、雲南行省府の右丞である阿忽台等々に詔勅が降り、彼らは蒙古軍を預かり雲南王を従えて、南蛮の八百媳婦へ軍征した。
●元史巻二十五(本紀二十五:仁宗二)
延祐二年冬十月癸卯,八百媳婦蠻遣使獻馴象二,賜以幣帛。
延祐2年(1315年)10月癸卯、南蛮の八百媳婦は使いを遣わし、象二匹を献じた。よって幣帛を下賜した。・・・これはランナー王国から朝貢があったことを記録しているが、何処に朝貢したのか、雲南行省府なのか元朝の都に対してであったのか、もうひとつよく分からないが、賜るとあるからには帝からの下賜とも考えられる。
●元史巻三十(本紀三十:泰定帝二)
泰定三年四月甲寅,八百媳婦蠻招南道遣其子招三聽奉方物來朝。泰定三年秋七月己巳,八百媳婦蠻遣子哀招獻馴象。
泰定3年(1326年)4月甲寅、南蛮の八百媳婦を南道に招じた。(八百媳婦は)その子招三を朝廷に派遣し、産物を献上した。・・・これは来朝とあるからには、京師に入朝したものと思われる。泰定3年(1326年)7月己巳、南蛮の八百媳婦は子(王子)の哀招を遣わし、象を献じた。・・・これは雲南行省に対してのものか、京師に朝貢したのか判然としない
●元史巻三十二(本紀三十二:文宗一)
致和元年十一月癸酉,八百媳婦國使者昭哀,雲南威楚路土官胒放等,九十九寨土官必也姑等,各以方物來貢。
致和元年(1328年)癸酉、八百媳婦國は昭哀を使者として、雲南の威楚路や九十九洞は、その士官等が来貢して物産を献じた。・・・ここで元史巻30には、招三、哀招を遣わしたとある。この巻32には、昭哀が使者となったとある。これは兄弟であろうか?
●元史巻三十三(本紀三十三:文宗二)
天歴二年二月,雲南行省蒙通蒙算甸土官阿三木,開南土官哀放,八百媳婦、金齒、九十九洞、銀沙羅甸,鹹來貢方物。
誤訳の可能性もあるが、概略以下と考える。天歴2年(1329年)2月、雲南行省の蒙通、蒙算(いずれも現・雲南省西双版納からミャンマー北東部)を支配する士官などと、八百媳婦等の5ヶ国(地域)が来て、物産を貢いだ。
●元史巻六十一(志第十二:地理三)
徹裏軍民總管府,大德中置。大德中,雲南省言:「大徹裏地與八百媳婦犬牙相錯,勢均力敵。今大徹裏胡念已降,小徹裏複控扼地利,多相殺掠,胡念日與相拒,不得離,遣其弟胡倫入朝,指畫地形,
元史巻十九と同一内容記事であるが、大徳年(1297-1307年)の出来事としている。
●元史巻六十三(志第十五:地理六)
大德六年,雲南行省右丞劉深征八百媳婦,至貴州科夫,致宋隆濟等糾合諸蠻為亂,水東、水西、羅鬼諸蠻皆叛,劉深伏誅。
大徳6年(1302年)、雲南行省の右丞は八百媳婦へ軍征し、貴州の科夫に至り、諸蛮の反乱の為、宋隆済などを糾合した。水東、水西、羅鬼などの諸蛮が皆反乱した。劉深を殺害した。・・・この劉深なる者がよく分らない。元史巻20、21にでてくる劉深と同一人物なのか?であれば巻21では、元貞7年(元貞7年は存在せず大徳5年、つまり1301年)3月に乱の咎で殺害されている。当該巻63の記述にある大徳6年に誅殺された劉深とは、年号が異なるが同一人物かどうか?
●元史巻九十九(志第四十七:兵二)
武宗至大四年十二月,雲南八百媳婦、大、小徹裏等作耗,調四川省蒙古、漢軍四千人,命萬戸囊加部領,赴雲南鎮守
武宗至大4年(1311年)12月、八百媳婦と大、小徹裏が乱れた。四川省の蒙古と漢族の軍隊4000人を派遣し、万戸に命じて軍をたすけ、その地を鎮守させるため赴かせた。
●明史巻百八十(列傳第六十八)
弘治元年,土官陶洪與八百媳婦約為亂,洪乘間翦滅。
弘治元年(1488年)士官の陶洪に八百媳婦の乱(西双版納への侵入)を収めさせることにした。陶洪は間に乗じて乱を殲滅した。
元史、明史からランナー王国に関する記述を抜粋したのが上述である。漢文知識はゼロなので、誤訳が多々あると思っており、御免なさいである。これをみると、元史巻17、19、20、21、23、24、61、63,99はタイ族国家(地域)への元の軍征南下について、巻25、30、32、33はランナー王国からの朝貢、明史巻180は明のランナー王国に対する乱の平定記録である。
記事の中味であるが、至元29年(1292年)から皇慶1年(1315年)までは、軍の南征について、特に1298年12月、元は2万人の軍隊をランナーに派遣したとある。兵站補給はどうであったろうか。想像をたくましくすれば、南下行軍の途中で徴兵されたものの中に、手に職を持つ人々が含まれていたと考えられなくもないが、それは元史に記録されていない。
巻25、30、32、33はランナー王国から元に対する朝貢記事で、年代は延祐2年(1315年)から天歴2年(1329年)までである。そこには象を献上し王子が入貢したとある。その王子の帰国に際して、工芸職人を帯同したとも想像できるが、このことも元史に記録されてはいない。
巻25では象の献上の見返りに、幣帛を下賜されたとある。上述の工芸職人の帯同を許可されたかどうかは別として、下賜品のなかに元染めや龍泉青磁、雲南青花が含まれていたとの想像は許されるであろう。現にタイ西部山岳地帯からは、これらの陶磁が大量に発掘されていることから明らかである。
<続く>