晴走雨楽(せいそううがく) 風の又三郎

晴れている日は山やロードを走り、雨の日は音楽や楽器演奏しています。風の吹くまま、気の向くまま・・・。

“藤波辰爾自伝 未完のレジェンド”を読んで

2011年02月12日 11時00分11秒 | 昭和のプロレス
■君津市立図書館にリクエストしていた「藤波辰爾自伝 未完のレジェンド」が入ったので
早速読みました。


■“藤波辰爾自伝 未完のレジェンド”を読んで
○藤波辰爾自伝 未完のレジェンド  著者 藤波辰爾  発行所 草思社
2011年11月25日発行  定価 1,600円

○リングネーム 藤波辰爾(ふじなみ たつみ)、本名は藤波辰巳。ニックネーム 炎の飛龍、
ドラゴン、身長186cm、体重104kg、誕生日1953年(S28)12月28日、出身地 大分県。

○父は炭焼きを生業、兄弟姉妹の6番目の末っ子。地元の中学校の陸上部で三段跳びや
走り幅跳びが得意だった。日本プロレス第11回(S44)ワールド・リーグ戦を観戦、忘れない
プロレスとの出合い。
職業訓練学校を卒業して自動車会社に就職、趣味でボディビルセンターに通う。
大分県出身レスラーの北沢幹之が別府温泉に湯治にきていた宿泊先でプロレス入門を
お願いする。
日本プロレス九州巡業に同行、正式な練習生でなく「坊や(16歳)」。
その後、入門の許可が下りて、練習生として認められる。
すべての原点はアントニオ猪木だった。
デビュー戦 1971年(S46)北沢幹之 7分50秒の試合はなす術もなくやられてします。

アントニオ猪木、日本プロレス追放。
猪木が新団体を作るので、一緒に参加、新日本プロレス、旗揚げ!。
第1回カールゴッチ杯争奪戦 1974年(S49年)で優勝、夢にまで見た海外修行。
西ドイツ、アメリカ・フロリダ州、ノースカロライナ州、メキシコと続いた海外修行、日本を出発
して2年半が経過。
ニューヨーク、憧れのMSGでWWWFジュニアヘビー級のタイトルを獲得。
ドラゴンスープレックスの必殺技。
1978年(S53年)凱旋帰国、ドラゴンブーム到来となる。
空前のジュニアヘビー級ブームが巻き起こった。

ヘビー級転向への「飛龍十番勝負」がスタート。
1982年(S57年)長州力との「名勝負数え唄」の抗争スタート。
1985年(S60年)師匠・猪木とのシングルマッチ、60分フルタイムドロー。
1989年(H01年)ベイダー戦で腰を負傷、一年三ヶ月の闘病生活。
復帰後の新日本に居場所はなかった。
1999年(H11年)新日本プロレスの社長に就任。
総合格闘ブームが定着。
2004年(H16年)社長解任、さらば、新日本プロレス。
無我ワールド旗揚げ、ドラディションに名称変更。
生涯現役宣言。

と一気に読みました。
●1985年(S60年)頃? からプロレス放映を見なくなり、その後、プロレスの動きは
分かりません、藤波選手が第77代NWA世界ヘビー級王者となっていたのは驚きました。
やはりドラゴンブームの時が一番輝き、正にプロレスブームと相俟っていました。
今後もテレビ出演など芸能活動をやりながらリング生活を継続して欲しい。




コメント
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