晴走雨楽(せいそううがく) 風の又三郎

晴れている日は山やロードを走り、雨の日は音楽や楽器演奏しています。風の吹くまま、気の向くまま・・・。

「マモ・ウォルデについて③」  (動画追加)   433

2012年04月03日 00時17分38秒 | マラソン
■「マモ・ウォルデについて③」

★2019.01.17:動画追加

●ミュンヘン・オリンピック (1972年8月~9月)
このミュンヘンオリンピックに、アベベは栄光に輝くかつてのゴールド・メダリストたちの
ひとりとして招待されたのである。車イスのアベベ。

マラソンは、9月10日午後3時にスタートした。
2時間後、オリンピックのマラソンゲートに最初に姿を現わしたのはフランク・ショーター
(USA)、続いてカレル・リスモン(ベルギー)、そしてマモ(40歳)であった。
4位はケニームーア、5位は君原健二。
マモはレース前の予想を見事にくつがえして、堂々3位に入賞し、しかも2時間15分08秒
という自己最高の記録で走ったのである。

マラソンに3位入賞し、エチオピアの三色旗を、オリンピックのマラソンで、四度続けて
ひるがえしたのである。

★You Tube 「フランク ショーター ミュンヘン オリンピック マラソン」を観ると。
スタート前、アベベが車いすで登場、観衆に右手を上げて挨拶。
口髭をたくわえたショーターが独走状態で飛ばす、第2集団は3人、ケニー・ムーアー、
マモ、カレル・リスモンが追いかける。
フランク・ショーターが、競技場ミュンヘン・オリンピアシュタディオンに戻ってくる。
従軍していた父がドイツに滞在していたため、ミュンヘンで生まれており、生誕の地で
開催されたオリンピックで金メダルに輝く。
続いて、カレル・リスモン、そしてマモがゴール、ショーターが握手しに近寄る。


●エチオピア帝政の崩壊
1974年9月、45年間もの長きにわたってエチオピアに君臨してきたハイレ・セラシエ
皇帝が追放され社会主義政権が誕生した。メンギスツ政権。
マモが所属していた親衛隊は、中央軍隊と名前を変えた。


●社会主義国家とマラソン・コーチ
筆者(“アベベを覚えていますか”山田一廣:エチオピアに1972年から2年間、青年海外
協力隊員の一員として生活)が、マモ・ウォルデと1979年7月国立競技場で初めて会う。

マモは次代を担うランナーたちの長距離のコーチとなっていた。
グリーンのトレーニング・ウェアのまま、スタンドを軽快な足どりで駆け上がってきた。
屈託のない笑顔、アベベに比べ、マモは親しみが持てた。しかも、快活で愛嬌がある。
ズボンからスポーツ新聞(公用語アムハラ語)を出し得意げに話しだした。
「これでモスクワ・オリンピックの1万メートルはエチオピアがいただきだね、マラソン
だって十分狙えるさ」
マモは英語の新聞を買うように少年にいうと、機敏な身のこなしで階段を駆け降りて、
トラックの外へ消えて行った。
「いまの少年、すばしこくて身体が柔らかい、長距離ランナーとしてあいつはものに
なるよ」 (後の1998年、ボストンマラソン優勝の“アベベ・メコン選手”である)
カナダのワールドカップの1万メートルで“ミラーツ(ミルツ)・イフター”が優勝した記事。
(1年後の1980年 モスクワ・オリンピック 5千、1万メートルで金メダルを獲得)

マモは英語がある程度解せるし、筆者はエチオピアの公用語アムハラ語の日常会話
ができ、会話が出来た。その後、会う回数は35回となった。

マモは社会主義政権になってからは、生活が苦しくなるばかりで、バス代を節約するため
毎朝10キロ近い道のりを歩いて国立競技場まで通った。


●メンギスツ政権の崩壊
1991年5月に軍事的独裁で統治していたメンギスツ政権が崩壊した。


●マモの逮捕
社会主義政権が崩壊から間もなくして、マモが新政府により逮捕、収監された。
逮捕の理由、皇帝が革命で死去。恐怖政治の中、1978年、15歳の少年の射殺に
かかわったとされ、政権が再び代った後の1992年に拘束された。
一貫して無実を主張。

○ケニー・ムーア(ミュンヘン・オリンピック マラソン4位) “マモ・ウォルデの試練”
1995年に私(ケニー・ムーア)は、ウォルデが犯罪で告発されることなく、3年間投獄された
ことを国際オリンピック委員会に公正な裁判を要求した。

同じ時代に活躍した中長距離選手、ケニヤオリンピック委員会の“キプ・ケイノ”会長(メキシコ・
オリンピック 1500m金メダル)1995年は釈放の可能性を探るため、アディスアベバに赴いた。

メキシコ十種競技金メダルの“ビルトゥーミー”は、スイスに行き、IOCサマランチ会長にアトランタ
オリンピックにゲストで参加するよう要請した。

東京オリンピック1万メートルの金メダルの“ビリーミルズ”は我々がウォルデのために五輪旗
に署名を提案した。それは刑務所に届けられた。

IOCに雇われたウォルデの弁護士ボガレは検察官に交渉。

○裁判官は、6年の刑の言い渡した。しかし、すでに9年の投獄生活を送ったことを理由に、
釈放された。
妻と子供たちの家で “神に感謝し、私はついに自由だ” と彼は言った。“私は誰に向か
って全く悪意を持たない“  目、耳、肝臓を患い、4カ月後死去した。
アディスアベバ郊外、セント・ヨセフ墓地にあるアベベの墓の後方にマモは埋葬された。
(マモは「死後、友人アベベの隣に埋葬してくれ」と、遺言を残していた)
(その後、立像は破壊され日本で修復募金を行ったがアベベの親族から反対要請があり中止)

※アベベ・ビキラが栄光からラストスパートするように消えて行ったのとは正反対に、マモ・
ウォルデは政権に翻弄されたアスリートの悲しさがある。
しかし、ニスカネン・コーチの指導の下、アベベ、マモが築いた長距離の基盤はその後、世界
陸上やオリンピックで上位に活躍する選手を輩出し、ケニアと競う長距離王国となった。

長距離王国エチオピアの誕生


 

 

★動画


★ミュンヘン オリンピック 1972 マラソン

注:この動画には音声が入っていません。

 

 

 



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