真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

展覧会の絵 2

2006年09月26日 15時52分58秒 | 虫プロ展覧会の絵
スタッフの改編により社長室にも変化があった。
島方部長を社長室長として迎え、その下に秘書の宮下さん、長年、運転手兼秘書の須崎さん、現場のわかる人ということで、富岡 厚司さんの後任としてW3進行の下崎さん、募集で新たに入社した事務の大島さんで母屋の漫画部があった部屋に作られた。
この部屋は漫画部と使用していたが、漫画部は、中村橋駅北側線路沿い池袋方面へ、道路が突き当たりとなる、2階建ての2階に引っ越していた。

この頃手塚先生は眼鏡を作り直していた。そのめがねの度があわないせいなのか、はたまた、仕事がはかどらないせいか、いらだつことが多かった。手塚先生が原稿を描き解きは、顔を原稿に極端に近づけて描いていた。手塚先生が仕事するのは食堂側の壁際にあるピアノのそばの机か、疲れると、螺旋階段を上がった1階から丸見えの2階のへや部屋であった。社長室はいつもピーん、と張り詰めた空気が漂っていた、
 電話恐怖症であったがその時には、電話のなる音にも気を使い、電話がなる前に、受話器をとるようになった、(ふしぎに思うかもしれないが、静かな部屋だと、ベルがなる前に、リレーが入る音が、かすかに聞こえ、そのカチャというかすかな音で、受話器をとるので、音の鳴る前に出ることが出来、初めは手塚先生を驚かしました)

その眼鏡を島方室長の計らいで、再度作り直している頃だった。


前夜お話のあったムソルグスキーの「展覧会の絵」のオーケストラを注文したので、新宿伊勢丹近くのレコード店へ買ってくるように言い使った、この日は眼鏡をしきりに気にしていて、いまの仕事も遅れていて、機嫌が良いとはいえなかった。
新宿までは、フジテレビへ行く時の裏道を使って、あまり時間をかけないで買って来ることができた。手塚先生はレコードを受け取ると、すぐに螺旋階段を上って2階へ行き、レコードをかけた、すると、そのレコードは、ピアノ曲であった、「オーケストラのほうを買ってきてと言ったのに、と不機嫌そうに言うか言われないうちに、レコードを受け取り部屋を飛び出し交換に走った。
レコード店でにつくと、ムソルグスキーの「展覧会の絵」と言われたので間違っていない、一度針を通したので交換は出来ないという、それは、この頃常識となっていた。しかし負けずに、オーケストラのほうと言ったでしょう、と言い返したが、言った言わないで、小一時間も押し問答する始末であった、「ムソルグスキーの「展覧会の絵」というとピアノ曲のことで、オーケストラが欲しいのならラベル編曲と言うべきだった」と言うことまで勉強させられた。手塚先生はオーケストラのものと言っているのでこちらも引き下がれない、そこでしかたなく事情を説明して、「手塚治虫が今度アニメに使うためで、先生はピアノ曲のほうはお持ちなのだ、オーケストラが必要なのでわざわざ買い求めたのです」と説明した、しかしこんどは、手塚先生が注文したと言うことを、信用してもらえない、 「信じないなら電話を貸してください」と、最後の手段で手塚先生に電話をかけ、事情を説明、まったく信用していなかった店員も、初めは疑っていたが、やっと信じて「本来なら交換は出来ないのですよ」といいながら交換してくれたと。眼鏡の件で機嫌が悪かったので、仕事中に迷惑な電話をかけて怒られると覚悟して社に戻ったが、手塚先生はニコニコして「ご苦労さん」とねぎらってくれた。
 その夜そのレコードは壁に埋め込まれた大きなスピーカーから流れたことは言うまでも無かった。
コメント
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