真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

W3 ちょうちょ

2006年09月11日 16時18分23秒 | 虫プロW3
 W3班は制作進行さんが貫徹続きで、見ていられないと、人員の増加がされた。
プロデューサー は池内 辰夫さんであったが、実質的に現場を動かし、指揮していた、アシスタントプロデューサーの黒川 慶二郎を中心にして今までの進行の古参 小柳 朔郎、下崎 闊、神田 武之、吉村 昌輝、 中島 浩、 に新たに丸山 正雄、金沢 秀一、山田 和夫、本橋 誠、斉藤 一郎、秋沢 宏、牧元 悟、吉田 孝雄が、次々と、入社してきた。
そこで運転免許を持っていない神田 武之は演出助手、小柳 朔郎、下崎 闊は持ち前の器用さから演出助手を兼任した。

 そのご吉村 昌輝は寝る間も惜しんで作画の勉強をし、社内試験に合格して、当初の夢、作画班に移った。彼は一度作画で入社試験を受けていた、諦めきれずに、運転免許を持っていたので制作進行として、試験を受けなおし、虫プロに入ってきていた。初心を忘れず、貫徹続きのなか、寝る間を惜しんで、作画の勉強を続けていたのであった。

丸山 正雄、は自転車すら乗れなかったので演出助手出あったがすぐに頭角を現し持ち前の器用さから、文芸を兼ねた。
山田 和夫、金沢 秀一 が演出助手
本橋 誠、斉藤 一郎、秋沢 宏、牧元 悟、吉田 孝雄は進行にきまった。

一人前になるまでには時間がかかったので最後まで楽にはならなかった、それでもみな覚えは早かった。

ワンダースリー班にも、いくつかの語り草(エピソード)が残っている。何せ仕事場は戦場であった、娯楽など、ほとんど無い、制作進行はスタッフの精神的なケアーもしなければと考えていた、まじめに仕事ばかりでは、精神的にまいってしまうからで、笑いが必要であった。
ギターが弾けるものは、休憩時間にギターを弾いて、みんなでうたを歌った(このころ歌声喫茶なるものが流行っていた)またお酒が入ると必ず、泣く娘が居た、皆が面白がるので、悲しいマイナーの曲をする。するとすぐに泣き出し、また泣かすといって男お泣きして、皆を笑わす。
 丸山 正雄さんは、入るとすぐに、皆からかわいがられて、まるたんと呼ばれていた、ある日3スタの急な階段に足を滑らせ、顔をすりむいてしまった、 すぐに一スタに手当てをしに行った、とても痛い思いをしたが、彼はただでは起きなかった。
おおげさに、顔中赤チンをつけてきて、戻ってくると、おどけた表情でおどりだした、つらい仕事が続いていた時、みんなを、大笑いさせた。 この時のことは、今でも昨日のことのように、よく覚えている、つらくて、くじけそうになっているとき、大笑いさせてくれた、まるチャンのおかげで、雰囲気が、ぱっと,明るくなったのだ。でもそのことで覚えているのではなく あの時のまるたんの目を見たが、けして笑っていなかった、きらりと光るものがありこいつは、只者ではないと直感みたいなものを感じていた。
 彼はのちに、あしたのジョー班で、実質的に現場を取り仕切った、アシスタントプロデューサー、網田靖夫の影となりささえていた、そして、あしたのジョー班でマッドハウスを作った、その人が今のマッドハウスの丸山 正雄その人である。

ほかにもとつぜん、変な声で「あっ!赤いチョウちょがとんでいる~、あっ!青いチョウちょもとんでいる~......。黄色いチョウちょもとんでいる~、あ~ぁ、赤、青、黄色、きれいだな~」と気が、ふれたような声で突然やるのだ! これはうけた。
つねずね、気のふれるようなスケジュールだ!など言っているものだから、とつぜんのこれは、大うけするのであった。 仕事だけこなせば良いではなかった。あの手この手を考え、いろいろなことをやり、張り詰めた空気をなごませた、それがW3の進行であった、このことは苦しい仕事の中、楽しい思い出になったと今でも、語り継がれている。
コメント
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