真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

第5スタジオと外注さんの思い出

2006年09月18日 14時08分32秒 | 虫プロ
第5スタジオというのは、今までのスタジオと違い、少し離れた、西武線の踏切を渡った、離れたところにあった、「悟空の大冒険」が作られたスタジオであった。
先生の長男、まこちゃん が通う、南光幼稚園の方であった。
 ここはもと、幼稚園で、広めの庭もあった。
 虫プロの西に、外注の波多正美さんの作画プロが、その幼稚園の、東側の教室に移ったのが最初 かと思っていた、しかし、手塚プロ作画のきばボーさんは、高校生の時代(昭和40年はじめ)作画を教わりに5スタへ来ていたと語っており、既に5スタは使用されていたということが最近になって確認された。

 外注さんには依頼する仕事は進行が運ぶのであるが、 その第5スタジオの近くには、アートフレッシュが一戸建ての家を借りてスタジオにしていた。
(株式会社アートフレッシュ、1967年、杉井ギサブローさんが設立した。スタッフに、杉井儀三郎さん出哲さん、弟の出崎統さん、(別名「崎枕」「さきまくら」「斉九洋」「松戸完」「矢吹徹」など。)奥田誠治さん、吉川惣司さんなど)のちには、ジャガードもそこに入った。
(1966年に作画スタジオ「ジャガード」荒木 伸吾や斎藤博ら仲間数人で発足後にアートフレッシュの部屋へ入った)
そのほか、作画の外注さんは、虫プロから独立した人や、東映動画から独立した人が、多かった。
 高木 厚さんのスタジオもその一つで、中村橋駅東の踏み切りを渡り通りの商店街を抜け、13間道路を突っ切り、旧街道を渡り、坂を下ると突き当たった、田んぼの向こう岸に埋立地の2階建ての家がみえた。信じられますか?昭和41年練馬区中村橋には、まだ田んぼか存在していたのですよ、今では、思い浮かべる事さえ、不可能でしょう。
 冬場は、その「あっちゃんのスタジオ」へ向かう田んぼ道が、ぬかってしまい、車がスリップして、入っていけないため、歩いて、スタジオまで行った。 所々に、炭俵が敷いてあったが、ぴょンぴょんと、飛び跳ねながら伝っていっても、革靴は、泥だらけになってしまい、そんな靴で車を運転するものだから、車のアクセルペタルにドロがこびりついて、ペタルは泥に埋まって、ガソリンスタンドで洗いながらそのドロを落とすのに苦労しました。

 炭俵は、雑貨屋さんが炭を売っていて、炭は炭俵に入っていたが、一表買う人はいないので、俵をばらしていた、その炭俵は、ただでもらえていたと思う。ただといえば、昔は、机代わりにしたりした、りんご箱も みかん箱も、八百屋さんで、ただでもらえたよね。 そして今買うと高いらしいが、服など保存するのに良い、茶箱 も順番待ちはしたが、昔はただだったような気がしてる。

 また話がずれたが、他にも高円寺には、岡迫さんらの ベフプロがあった。

仕上の外注さんもたくさんあった。
トレスも出来る 木のプロさん、は大泉にあり、今も活躍している。久米川には住宅の奥さんが集まって、「鉄道弘済会」ならぬ「鉄道紅彩会」ともじった彩色の外注さんもあったし、小金井団地には団地の奥さんが中心となって、「きららプロ」なる彩色の外注さんもあった。いずれにしろ、依頼や、集めに行くのは進行さんの役目で、把握している外注さんの数でよい進行さんなどと言われた。
良い進行といわれるために、外注を待たせないよう、セルの準備や穴あけ、絵の具の準備と、たくさん準備しておく仕事があり、また金額の交渉、出金伝票おこし、など、雑務も多く人が寝た後からの仕事がおおかった。
 それでもすべてのパートを把握し、進めていく自分が倒れたら変われるものがいないのだという責任ある仕事に、成し遂げたあとの快感は、苦しみぬいて完走したあとのマラソンのように、充実していた。
コメント
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