歌う介護士

看取りをしたご入居者から「あなたの声は癒される」と。お一人一人を思い浮かべながら、ずっと歌い続けています。

「私の満州」

2011-01-08 23:56:37 | Weblog
本当に辛い体験と言うのは、語れるようになるまで長い長い年月が必要なのだと思う。

私はこれまでお会いしてきた、シベリア抑留された人、満州引き上げしてきた人は、押し並べて話をするのを避けておられた。

「それほど大変ではありませんでしたから。」
「向こうの人たちが良く助けてくれましたので」
幼かった子供2人を連れて帰ってきた人だが、それ以上は語ろうとなさらなかった。

「もう忘れた、聞かないでくれ」
「覚えていない」
シベリア抑留され、5年6年して帰国された人たちです。

「私の満州」も65年経って、ようやく語り継がねば誰も知らないままになってしまうと、思い口を開かれ筆をとられたもののようでした。
「半分も書ききれていないのよ。」

引き上げ途上で生まれた次女さんがワードで構成をして助けてくれたそうです。


20歳で結婚され、大連(藩陽)を経て東安(密山)で新婚生活を始められたのが昭和17年。
翌18年に長女が生まれる。
昭和20年8月、次女を妊娠し予定日がまじか。
(略)
夫がある日、軍の幼児で軍隊へ行ったら『早く奥さんや子供さんを日本に帰した方がよい』と言われたと言う。
社宅の皆さんを裏切って私たちだけで帰国するなんて、とても私には出来ない。
私は皆と行動を共にすると答えた。
気のせいか街がだんだん歯の抜けたように寂しくなってきた。
(略)
変だなあと思っているうちに電線と言わず屋根と言わず「カラス」の大群で真っ黒になっている。
8月9日、上空を飛行機が飛んでくる。
昨夜、国境あたりの開拓団がソ連軍の空襲を受けて大変な被害だったと後になって知った。
翌朝、長女を背負い臨月のお腹を抱えて、会社の奥さん子供と一緒に駅の改札に向かう。
(略)
満鉄の車輪は私の背丈くらい合った。1両めまではとても行けず、何べんも失敗しながら、やっとの思いで3両めに乗り込む。
娘を膝の上に、でも一寸でも動くと元の位置を人にとられるほど狭い。
私の前のとは30センチほど、どうしても閉まらない。
なんと、夜明けと共に、ソ連兵が、飛行機から狙い撃ちを始めた。30センチの隙間から自動小銃の弾がどんどん入ってくる。忽ちバタバタ何人も倒れる。
血の海、悲鳴、・・・
飛行機から銃を構えた兵士の顔が見える。まだ少年だ。

窓もない貨車、水ー水ーと言いながら、いとも簡単に子供たちは亡くなっていく。

会社の家族の大半が乗っていた1両めへ。
なんと機関車めがけた集中攻撃の弾がそれて、1両車に命中して、会社の家族の大半は亡くなっていた。
(後略)


50年住んでおられた地の図書館から、朗読の会で使いたいと申し出があったそうで、本当に良かったと思いました。
語りたくても語れない方もいらっしゃるので、少しでも語り継がれればと思いました。