☆・・・今回、途中から、文学作品評論になります^^
◇
タイトルで「遅ればせながら」としましたが、公開から遅れての鑑賞となりましたが、シーズン的には、それほど遅れてはいませんね^^;
素晴らしかったです。
物語は文豪ディケンズの名作で、丁寧に描いていけば、同じくクリスマスシーズンが舞台となる『忠臣蔵』と同じく、外れのない出来となるでしょう。
CGでデフォルメされているとは言え、主演のジム・キャリーの動き・表情を見事に捉えていることに代表できる画像取り込みの演出は繊細で、
19世紀のロンドン、クリスマスシーズンの風俗を生き生きと映し出している描写も見事。
老人が主人公なので、本来は「静」の映像かつ、子供にはやや退屈な道徳話になるはずなのに、非常にうまく恐怖とスピード感を加え、「動」の3Dアクションをふんだんに盛り込んでくれていて、子供も楽しめる出来だ。
また、私は、その「静」の3D映像表現に、実に魅了された。
スクルージの動きの微妙な立体表現が素晴らしい。
今まで観た3D作品では、ダントツの出来だろう。
ロバート・ゼメキス監督は、いい仕事をしたと思う。
◇
ただ、私は、この作品の原作者チャールズ・ディケンズにはもの申したい。
もしかして、原作はニュアンスが異なるのかもしれないが、吝嗇家スクルージが、最終的には、「死への恐怖」「死後の恐怖」が引き金となって善行を施すようになるのが気に食わない。
スクルージの前には、3人の精霊が現われ(それぞれが魅力的)、その3人が順々に、過去・現在・未来を見せていく。
この作品では、頑固オヤジのスクルージが、先ずは、精霊によって過去に連れて行かれて、過去の変わりゆく自分を見て、すぐにしおらしくなってしまう。
当たり前である。
そこには、純粋な自分の姿があり、その姿こそが、一番に自分を省みさせるからだ。
故に、その後に、現在の自分(スクルージ)の客観状況・このままでは避けられない無残な自分(スクルージ)の未来、を見せられても、過去の自分の姿以上に呵責を得られるものではないと考えるのだ。
あまつさえ、この順番で真実を見せられても、観ている者には、スクルージが、最終的には、無残な死が怖いばかりに善人に変わったとしか思えないのだ。
ディケンズは、構成を間違えている。
物語は、先ず、未来の自分(スクルージ)から見せるべきなのだ。
それでも、スクルージは、「ふん。死ぬのなんか怖かないね」と素直じゃない。
現在の自分(スクルージ)の客観を見せられても、「べ、別に、あいつらなんかに何を言われても、へ、平気だもんねッ!」と、依然として「ツン」状態を貫くべきだ。
しかし、そんなスクルージも、過去の純な頃の自分の姿を見せられたら、さすがに、そんな自分を裏切ることは難しい。
しおらしくならざるを得ない(「デレ」)。
かくして、感動のエンディングに至れるのだ。
ディケンズは、「ツンデレ」の落差というものを、この作品を書き上げるまでの人生で学んでこなかったのだろうか?
ゼメキスも、何度も映像化されている定番をリメイクするにあたって、冒険しようとは思わなかったのだろうか?
日本人の感覚なら、この作品を映像化するという局面において、必ず、シナリオの不備を見抜けるはずだ。
◇
そう、「日本人の感覚なら」なのである。
キリスト教世界(欧米)は、時に非常にクールな視点がある。
つまり、この作品は、「死の恐怖なくして、悪人の変革はない」がテーマなのである。
この作品を100%の深い共感で受ける者は、日本人ではいないかも知れない。
理解できないで、いいのである。
(2009/12/16)
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タイトルで「遅ればせながら」としましたが、公開から遅れての鑑賞となりましたが、シーズン的には、それほど遅れてはいませんね^^;
素晴らしかったです。
物語は文豪ディケンズの名作で、丁寧に描いていけば、同じくクリスマスシーズンが舞台となる『忠臣蔵』と同じく、外れのない出来となるでしょう。
CGでデフォルメされているとは言え、主演のジム・キャリーの動き・表情を見事に捉えていることに代表できる画像取り込みの演出は繊細で、
19世紀のロンドン、クリスマスシーズンの風俗を生き生きと映し出している描写も見事。
老人が主人公なので、本来は「静」の映像かつ、子供にはやや退屈な道徳話になるはずなのに、非常にうまく恐怖とスピード感を加え、「動」の3Dアクションをふんだんに盛り込んでくれていて、子供も楽しめる出来だ。
また、私は、その「静」の3D映像表現に、実に魅了された。
スクルージの動きの微妙な立体表現が素晴らしい。
今まで観た3D作品では、ダントツの出来だろう。
ロバート・ゼメキス監督は、いい仕事をしたと思う。
◇
ただ、私は、この作品の原作者チャールズ・ディケンズにはもの申したい。
もしかして、原作はニュアンスが異なるのかもしれないが、吝嗇家スクルージが、最終的には、「死への恐怖」「死後の恐怖」が引き金となって善行を施すようになるのが気に食わない。
スクルージの前には、3人の精霊が現われ(それぞれが魅力的)、その3人が順々に、過去・現在・未来を見せていく。
この作品では、頑固オヤジのスクルージが、先ずは、精霊によって過去に連れて行かれて、過去の変わりゆく自分を見て、すぐにしおらしくなってしまう。
当たり前である。
そこには、純粋な自分の姿があり、その姿こそが、一番に自分を省みさせるからだ。
故に、その後に、現在の自分(スクルージ)の客観状況・このままでは避けられない無残な自分(スクルージ)の未来、を見せられても、過去の自分の姿以上に呵責を得られるものではないと考えるのだ。
あまつさえ、この順番で真実を見せられても、観ている者には、スクルージが、最終的には、無残な死が怖いばかりに善人に変わったとしか思えないのだ。
ディケンズは、構成を間違えている。
物語は、先ず、未来の自分(スクルージ)から見せるべきなのだ。
それでも、スクルージは、「ふん。死ぬのなんか怖かないね」と素直じゃない。
現在の自分(スクルージ)の客観を見せられても、「べ、別に、あいつらなんかに何を言われても、へ、平気だもんねッ!」と、依然として「ツン」状態を貫くべきだ。
しかし、そんなスクルージも、過去の純な頃の自分の姿を見せられたら、さすがに、そんな自分を裏切ることは難しい。
しおらしくならざるを得ない(「デレ」)。
かくして、感動のエンディングに至れるのだ。
ディケンズは、「ツンデレ」の落差というものを、この作品を書き上げるまでの人生で学んでこなかったのだろうか?
ゼメキスも、何度も映像化されている定番をリメイクするにあたって、冒険しようとは思わなかったのだろうか?
日本人の感覚なら、この作品を映像化するという局面において、必ず、シナリオの不備を見抜けるはずだ。
◇
そう、「日本人の感覚なら」なのである。
キリスト教世界(欧米)は、時に非常にクールな視点がある。
つまり、この作品は、「死の恐怖なくして、悪人の変革はない」がテーマなのである。
この作品を100%の深い共感で受ける者は、日本人ではいないかも知れない。
理解できないで、いいのである。
(2009/12/16)