懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

古い町並み 玉野市八浜の化粧地蔵

2012年01月10日 | 古い町並み


岡山県の岡山市の南に金甲山というテレビアンテナの基地局の山がある。岡山市、玉野市にまたがる半島には化粧地蔵の風習が残る。
今も夏休みの終わり頃の地蔵盆には子供が地蔵を洗い化粧を施す。
化粧地蔵の風習は全国各地で見かける。
津軽の身代わり地蔵や信州の道祖神にも見られるし鹿児島のタンカンサーでも見られる。
岡山ではあまりなく金甲山の半島にのみ残る。

玉野市八浜にあった化粧地蔵を撮影したが白黒写真では何を撮ったか判らない。
八浜はかって児島湾の中にあり水運を使っての醤油造りが盛んであった。
今も醤油工場は残っていると思うがレンガ積みの煙突はいい味をだしていた。
家並みは昔ながらの古い本瓦葺きの民家が残る。
児島湾は締め切り堰堤で仕切られてしまった。

化粧地蔵と八浜の全景の写真を投稿します。



半鐘のある風景

2012年01月09日 | 懐かしい物
木の半鐘

撮影 岡山県総社市



携帯電話の普及した時代でも木の半鐘が残っている。
しかし、リーマンショックの前、北京オリンピックや万博の工事で金属が高騰した。日本でも金物の盗難が相次ぎ、側溝の蓋や半鐘の鐘まで被害にあった。
これで鐘を取り外したところが多くなった。

鉄塔型の火の見櫓も残っているが段々撤去されている。山形県でエフエル塔のように道路を跨ぐ塔で軽自動車ならば通行できるのを見た。東北の火の見櫓は冬は寒いので部屋になっているのが残っている。
鉄塔型は今では訓練などで使ったホース干しに使われているところが多い。

昭和40年代はどこの集落にも半鐘はあったように思う。
その時はそんな物に関心もなくほとんど撮影もしていない。

世の中にはいろいろな人がいて半鐘ばかり撮影している人がいる。
ある雑誌で見た事がある。

撮影 岡山県倉敷市


撮影 山形県白鷹町

茅葺き民家、京都の民家

2012年01月08日 | 茅葺き民家
京都の茅葺き民家の風景は落ち着きがあり好きである。
マスコミはすぐに日本の原風景と表現するが好きな言葉ではない。
「癒し」も好きでない。使い古された言葉余り使いたくない。

京都の茅葺き民家は入母屋で北山型と呼ばれている。
勾配も北に行くほどきつく端正な造りが多い。
棟には木の置き千木が乗っていて、棟木に杉の丸太を二本、左右に根元が来るように置かれている。
家の周りには板塀や土塀で囲まれている。
ブロック塀やセメント塀でないのがうれしい。
田舎に行くと塀のない家が多い。東北の茅葺き民家で塀のある家は少ない。
経済的な理由という人が多い。
昔ながらの塀の家もよいが、塀のない家は土台から造りの全体が見えて写真を撮るときはない家が好きである。

京都の家の大きな特徴は庭木に杉を植える事であろうか。
大きな杉や株杉を植えることであろう。
株杉は小さな時に木の先端を落とし株立ちに仕立てたものです。
京都の背後の山は杉林が続く、杉は花粉症の犯人にされているがこれはおかしいと思う。
杉が花粉症を起こすのなら京都の人は他の都市と比べて格段多いのでしょうか、そうとは思えない。
線香の原料は杉の葉を粉にしたものです。長い間、日本人の馴染んできた匂いです。 葉も花粉も成分は変わりはないと思われる。(中には線香の匂いがいやな人もいるかもしれませんが)


花粉症の原因は車の排気ガス特にディゼル車、工場の排煙、中国から汚染物質や黄砂の飛散、都会の地下道の粉塵、密閉のよくなった住宅、清潔な生活でアレルギー物質に対して抵抗力がなくなった。等が挙げられる。杉を犯人に仕立てるのが当たり障りがないのでしょう。





株杉






株杉



蒸気機関車 発車

2012年01月07日 | 蒸気機関車
9600形蒸気機関車の牽引する貨物列車の発車
撮影場所 福岡県直方駅

9600形蒸気機関車は大正時代の機関車でD51などに比べて牽引力がない。
貨物が重いのでなかなか進まない。煙が垂直に昇っていることと前方のドレンの蒸気が進行方向に流れているのでわかる。こんな時には機関車はほとんど進まない。
こんな状態が続くと動輪が空転し激しく回る、煙突から息つきをするように煙が吐き出される。
空転は怖いパウンドすると脱線する可能性もある。
重くてなかなか出発せず空転しそうな時は動輪の前に砂を撒き摩擦力をふやす。

機関車の上部の2コブの後ろ側に砂が収納されている。前方のコブは蒸気溜めです。




古い町並み 古綿打ち直し

2012年01月06日 | 古い町並み
古綿打ち直しと書かれた看板があった。撮影場所 岡山県倉敷市茶屋町

綿布団は長年使っていると固くなりフワフワ感がなくなる。
そのためにほぐし直して再利用する。ほぐし直すのを打ち直しと言われていた。
布団の打ち直しという言葉も昭和の言葉ですっかり死語になってしまった。
まだ十分使える布団をゴミにだしてあるのを見るといたたまれない。
現在はアクリル繊維の綿がほとんどで木綿の布団は少なくなった。

綿が本格的に日本に入ってきたのは安土桃山時代だと言われている。
絹や麻などの植物繊維を使った繊維は古く奈良時代以前に入っていたに比べるとはるかに遅い。
絹で作られる綿は真綿とよばれていたのに対して綿の木の綿は木綿と呼ばれている。
木綿を「もめん」と呼ぶのは「もくめん」は言いにくいので中の「く」が抜かれるのではと思う。
江戸時代になり中国地方などで綿花の栽培が盛んに行われた。岡山でも綿花の栽培で栄えたところがある。

それでも綿は高価で江戸時代には布団三枚が100両もしたと書かれている。
到底庶民は蒲団に寝る事は出来ず、農民はゴザや藁にもぐって寝ていたようだ。
町民はドテラを長くした。「かいまき」や「よぶすま」と呼ばれる夜具を身につけて寝ていた。
厳冬期の夜は寒かったと思われる。凍死するのも珍しくなかったと思われる。

囲炉裏で木を焚き煙で部屋を暖めたという。
囲炉裏にロマンを感じる人もいるであろうが煙で眼から涙はでるし呼吸が苦しくなるし我慢できるのは一時間である。昔の人は肺や眼を病む人が多かった。

蒲団が一般的に普及したのは明治以降だそうだ。
母が生きている時に子供の頃は蒲団で寝ていたのかと聞いた事がある。蒲団に寝るのは当然だろうという顔をした。大正時代は綿の布団に寝られたのだと思った。
それでも東北などの昭和30年代まで綿の代わりに藁を入れた藁布団が使われていた。
海岸地帯は海藻を綿の代用に使っていた。藁は暑くなると布からだして新しい藁をつかっていたとかかれている。

茅葺き民家 石垣のある風景

2012年01月05日 | 茅葺き民家
昭和47年頃、南予の外泊集落の石垣積みや由良半島の段々畑の写真を見て町役場に手紙を書き資料やバスの時刻を送ってもらった。しかし、交通の便の悪さに実行にいたらなかった。正確には交通の便の悪さを理由に自分の意思の弱さが実行に至らなかったと言うべきであろう。

私は一時期、石垣を撮影のテーマにしようとした事がある。石積みや石垣は建物や構造物は支える縁の下の力持ちで主役にはなり得ないと断念した思いがある。
若かっただけにそれをテーマにするだけの発想やまとめる能力が無かったし、趣味として取り組んでいる人もいなかった。前例の無いものをテーマにするには余程しつかりした考えがないと難しい。
平野の少ない日本では斜面に敷地や田畑を得るには石垣を積み平面を得るしかなかった。
山間部の茅葺き民家にはほとんどの家で石垣が使われている。

今でも山間の集落を訪れると田の真ん中に家は建っていない。家は山際の斜面に張り付くように建っている、住む土地を確保するために田を減らす事は許されなかった。人が増えれば石垣を積み棚田を一枚一枚増やしてきた。石垣には人の長い長い歴史が込められている。

石垣が使われているのは川、海辺の護岸、家の周りの防風、防護用、棚田、家の基礎、土台、城 
天守閣を持つ安土城以降の城は天守閣とともに石垣が重要な存在となってきた。石垣を積み上げる事でより豪華に見せるとともに構造物を支える技術も要求される。
城の石垣については穴太(あのう)の石工が有名である。安土城建設の時から全国の築城に携わっている。穴太の石工は安濃、安納、阿武の姓として受け継がれている。
余談だが女子柔道重量級オリンピック金メダリスト阿武 教子(あんの のりこ)の先祖は石工では無かったかと一人想像する。高校生で日本チャンピオンになった時、骨太な体形はどう見ても石工の血筋に思えた。ちなみに彼女は山口県阿武郡福栄村出身

石垣には自然石を使ったのと加工した樵石がある。自然石は丸みを帯びているので孕みがでて崩落しやすい。自然石も四角い石や平たい石が安定性がある。その点、樵石は隙間なく整然と組める。
石垣も石組だけでは耐えられない。土が持つ抗力が失われると土砂崩れとともに石垣も崩落する。
土は水を含みすぎて泥になると抗力を失う。下部や石垣の脇に礫などをいれ水はけをよくしないと豪雨には耐えられない。








茅葺き民家  斜面に暮らす

2012年01月02日 | 茅葺き民家
撮影場所 広島県

斜面に建つ茅葺き民家があった。
きつい斜面に家が建つ、石段が家への道である。
車を置く場所もない、仕事や町へ出るのはどのようにしているのか。
農業で食べるだけの土地がない。建設業で働くか工場で働かないと生活の糧がない。
都市部に生活する者はこんなところでは寂しくて住めないという。 近くにスーパーや遊ぶところ、病院がないと生活ができない。

地元の人と話すとこんな厳しい環境のところでも住めば都、全く悲壮感はもっていない。むしろ山間部での生活を楽しんでいる向きもある。
空気は美味しいし水もうまい。新緑、紅葉、雪景色、雲海も素晴らしいという。
四季折々の山の幸を取りに行くのも楽しみという。冬のイノシシ料理がまた美味しいという。
故郷を捨てられない事情もある一方、自給自足に近い生活にも楽しみがあるに違いない。
しかし、いつまで集落を維持できるかコミュニティがあるうちは住めるが一人去り一人去ッて行く現状では厳しいものがある。




本年もよろしくおねがいします。

2012年01月01日 | 旅行
撮影 山梨県富士吉田市 北口本宮浅間神社

忍野村に茅葺き民家を撮影に行った時に立ち寄る。杉の御神木は存在感があった。八方に広がった根張りは見事である。巨木に出合うとその生きた長さと大きさ高さに人間は敬服せざるを得ない。

夕暮れ巫女さんが戸締り見回りに行っている時に撮影させてもらう。
どこの神社でも御神木は植えてある。巨木ほど神社の歴史を感じ風格をます。
日本人は太陽などの自然や巨大な物を信仰してきた。またどんな宗教でも受け入れる寛容さと融合をさせてきた。
日本の神社の御神木を撮影すると面白いと思うが、私の身体では神社仏閣は階段があり苦手な場所となった。
長く参拝も遠ざかっている。
千社詣でや千ケ寺巡りをしている人もいる。旧国名の一宮を回っているいる人もいる。
中国やインドの寺院を見ても森や林はないように思う。鎮守の森や寺院の森は日本の貴重な文化遺産だとおもう。