懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

岡山の茅葺民家 旧旭町

2016年03月22日 | 日記
撮影場所 岡山県旭町

旭町もダムがあることもあるが耕作地の少ない土地である。
あるのは山だけである。田はほとんどが棚田である。
このような土地で人口を維持するのは難しい。
車を持ち電化製品を持ち家を建てる生活をするにはある程度の収入がいる。
通勤一時間以内で働ける場所があればいいが

民家も斜面に 石垣を積み平地を得て家を建てている。
地域の人に手伝ってもらい石積みや土砂入れをしたのであろうか

ナニコレ珍百景という番組があった。この三月で終了となった。八年間200回以上放送された。地域の隠れた風景や長年にわたり記録や創作された人の発掘に役だった。
お笑い番組のように思われがちだが観光資源の発掘、市井のなかにもこんな凄い人がいるのを知った。
最後の放送では反響の多かった作品ベスト10が発表された。
ベスト4にランクした山口県祝島の親子三代で完成させた棚田が選ばれた。
祝島は原発建設で揺れた上関近くの島である。
家の周りを防風のため石垣で囲う民家が並ぶ。港から一時間歩いた所にその棚田がある。
石垣を積んだ三代目は83歳で健在だ。観光案内にも登録されマニアックな人のブログに投稿されている。その棚田はまるで城壁のようでもある。
重機もない時代に個人の力の凄さと精神力に屈服する。

地方再生が叫ばれているが地方には人々の努力の痕跡が残っている。ナニコレ珍百景のように
地方に埋もれた資産や技術を発掘して今後に生かしてほしいと思う。

茅葺民家  広島県の旧芸北町民家

2016年03月21日 | 茅葺き民家
広島県の北部にある芸北町、 少し走ると島根県に入る。標高も高く冬は積雪もありスキー場もある。
八幡高原と呼ばれ平野になっている、周囲は山に囲まれ盆地にな1っている。
そんな平野の中に茅葺が点在していた。何度か訪れたが手前に三段峡の観光地がありそこに立ち寄って 撮影に行くので夕方である。
光線の良くない写真ばかりでいいい写真がない。

私は三段峡には興味が無かった、それより茅葺が消えるのが心配だった。
また来ればと思うが高速道路を使いたびたび来られない。
数年して訪れると茅葺民家は無くなっていた、
今は随分減った。
田舎の雰囲気満載の土地だった。

大きな木のある茅葺民家だった。
屋敷林のある家があまりなかった。
目印になるためランドマークの役割をはたしたのであろうか
松の大木のある家は一本松などと通称で呼ばれていた。

こんな山の上の平野はどうしてできるのだろうか、昔は堰き止められ湖ではなかったかと想像する。地層をボーリングすれば土地の歴史がわかると思うが。


日本茅葺紀行 NO,279 岩手県九戸村の民家

2016年03月19日 | 日本茅葺紀行
まだ現役で仕事をしていた頃に東北で茅葺民家を撮っている人に岩手県の所在を教えてらった。
長期に休みが取れず教えてもらったところへ行ったのは5年後であった。
しかし、茅葺は大きく減っていた。写真の一軒のみであった。
茅が崩れ放置された家が何軒かあった。来るのが遅かったが現実である。
5年も女を待たせたため女は別の男に嫁ぐ。
悪い男に引っかかりみじめな人生をおくる。
昭和歌謡にもよくあるケースの唄である。
いつまでも待っていられない。

「茅葺も女も待たず5年間」
「いつまでもあると思うな茅と金」

5年で社会情勢も変わり茅の痛みも進行し高齢化も進む予想以上に変化するものだ。

昭和の遺物たち 牛のいる風景 その2

2016年03月18日 | 昭和の遺物たち写真展
小規模な農家での牛を飼う風景も随分減ったように思う。
高齢化が進み牛に手間が掛けられない。女の人では外にも出せない。
それでもお婆さんが牛を飼育している茅葺民家があった。
雪が降るところなので内厩である。
東北のように厩は曲がりやになっていない。普通の寄棟の玄関脇に厩がある。
夏場は臭いもするしハエやアブ、ブトも多いと思う。
家内はアブに噛まれて腫れあがってから牛を飼っているところへ行くのを嫌う。

お婆さんのかっている内厩の牛を帰省した孫が見て熊がいると言ったそうだ。
牛はホルスタインの文様とおもつていたのであろう黒いのは熊とおもっていたのであろう。
そんな牛を飼っていた人々もあれから20年かなり高齢になっている。

畜産業もTPPを控えて厳しい時代がくる。和牛の国産ブランドで海外にも進出してほしい。

蒸気機関車 鄙びた風景

2016年03月17日 | 蒸気機関車
撮影場所 鹿児島県吉都線

何の変哲もない写真である。
混合列車と思われる列車を蒸気機関車が牽引して去りゆく風景
鉄道好きにはバツと言われそうな写真であるがこれを見て何故か懐かしい。
ハエタタキと呼ばれた電柱、山間の小さな田にも稲が植えられた風景
やっと毎度、米の飯が食べられる時代になった。米の消費用も多く減反はされていなかった。

昭和の風景である。民家が入るとその当時の風景がわかりもっと良かった。
鉄道の写真を撮るにしても人々の生活や風景の中にどう溶け込んでいつたかも残さないといけないと思った。

岡山の民家 雪の山村

2016年03月16日 | 茅葺き民家
撮影場所岡山県旧阿波村
12月に入ると阿波村には雪がふる。
小屋も母屋も茅の民家があった。
向かいの山の斜面を下り障害物のない崖の先端まで降りた。
途中の斜面は雪が残り落ち葉は濡れ滑りやすい。
何度も滑りクマザサを掴みながら降りた。

草木の無い先は崖であった。
茅葺民家の暮らしや集落が見えた。
ここにいるのは自分だけだった。
いい眺めである。
他人の民家を沢山撮っても何になるのかとも思った。
1.何もせずぶらぶら生きるよりましだ。2.茅葺の数だけ自分の行動の記録になり生きた証になる。3.茅葺民家のコレクションになり写真展やブログに使えるかも 4.何十年後、時代の変化や建物の変遷の資料になるかもと考える。
深く考えるだけでは先に進まない行動することに意味があるように思う。
歳をとればフットワークの軽い人が大将だし気も若い。

民家を訪れたらたら「あんたら安気なものだね、昼の日中からカメラを持って」と何度か言われた。仕事もせずにといわれているようだった。
農家の人は定年がない。85歳でも現役だ。
定年まで働き税金も支払い年金も支払ってきた定年後どう生きようと他人から詮索されることではないのだが。

茅葺民家  京都府旧丹波町の民家

2016年03月15日 | 茅葺き民家
丹波といえば丹波篠山、デカンショ節が有名だが兵庫県である。
丹波町は篠山町の近くで京都府になる。
藩政時代には兵庫の東側から京都の西側の一帯が丹波であったようだ。
家の造りもよく似ていて端正である。
雪の降る所は角度もきつくなる。

この地区に初めて行った時は日本の故郷のように思えた。
私も昭和40年、50年代の丹波の風景を見ていないのが残念である。
写真集などで見ると懐かしい風景満載である。
しかし、それを見て感動する心が育っていたかどうかである。
昔から写真は撮っていたが農村風景の映像として残っていないのは関心もなく気付いてもいないのだ。
私の年代は昭和そのもので長く生きてきたが昭和の時代には昭和の良さに気付いていない。
平成になり初めて昭和の良さに気付いたところがある。

美山町に行くときに一般道の丹波町を通った、富田という地区に茅葺民家が点在していた。


日本茅葺紀行 NO,278 大阪府旧能勢町の民家

2016年03月14日 | 日本茅葺紀行
能勢町など小さな町だからみんな回っていると思ったが小さな道を走っていたら茅葺民家が残っていた。いつ取り壊されたりトタンを覆うかわからない。

今の時代茅葺に巡り合えるだけラッキーである。
一期一会と思い感謝である。
面倒臭がらずコツコツと撮っていく自分の人生の記録でもあり生きた証でもある。

昭和の遺物たち 牛のいる風景 その1

2016年03月13日 | 昭和の遺物たち写真展
今回から二回にわたり牛のいる風景

撮影場所 島根県旧伯太町、広瀬町

中国地方は昔から牛を飼っていた雄は農耕用、雌は繁殖用や食肉用にされていた。
古くは朝鮮半島から運ばれ農耕や荷物の運搬に使われた。
食肉にされたのは明治以降になってから、明治以降はいろいろな肉牛の品種が輸入され在来種と掛け合わせ和牛のもとになったようだ。トカラや見島の在来種は体格が随分小さい。
和牛とは日本で生産された牛だそうでホルスタインも日本で生まれたものは和牛として販売されているのであろう。

戦後、農業の機械化が進み耕作や荷役のの用途に牛は必要なくなった。
肉牛の用途しかない。昔は雑草を刈って牛の餌にしていたが濃厚飼料や藁を与えるで山の裾野は雑草や木におおわれている。

牛は小屋の中は狭く外でも繋がれたまままで自由がない。大きく育て肉牛にされるのはかわいそうな気がする。放し飼いにしてやればと思うが女のひとが連れ戻そうとしても言うことを聞かないそうだ。


岡山の民家 山麓の集落

2016年03月12日 | 茅葺き民家
撮影場所 岡山県東粟倉村

東粟倉村は山麓にある。平地が少なく山の斜面に家も田もある。
上から見れば棚田になっているのであろう。
平坦な道は少なく登りである。上に行くに従い登りが急になる。
アルプスの裾野を見ているようでもある。
そんな山麓の集落にも茅葺はあった。
何度か訪れて撮影したが撮り方が下手だ。
もう姿を消した風景だに惜しまれる。
カラーでの撮影はしていない。
デジタルカメラになるまで風景が待ってくれなかった。