因島の原ちゃんが、お孫さんからもらったタネ、お孫さんは校長先生からもらったと言うふうせんかずらのタネ、そんな温かいやさしい繋がりのタネを、
植えた。 グリーンカーテンが出来た。
お隣の奥さまが、朝顔といつも見せてもらっているんですよと言ってくださる。
孫たちも来るたびに、茶色になったふうせんをとっては開けて黒いタネをとって喜んでいる。 ハートのかたちが入った黒いタネ。
風が吹くと、フウセン同士がカサカサと触れ合って心地いい音を奏でる。
(夏が少しづつ遠ざかって行くんだよ~) そう言っているのかなぁ。
”あなたと共に””旅立ち” なんて素敵な、花言葉。
可愛いタネ、私はどこへ飛ばそうか。
帰省で会った人たちにお礼状を書いて午後、歩いてポストへ入れに行った。 カメラを持って。
マンションの植え込みに、咲いている夾竹桃。
広島に原爆が投下され、焼け野原と化した広島の地にいち早く咲いたのが”夾竹桃”だったと聞かされた。
夾竹桃はあるときから、広島市の花になったそうだ。
街で見かけるのはピンクが多い。 きっと先に咲いたのは明るいピンクではなかたtろうか。
暑い夏に生き生きと美しく長い間花をつける、夾竹桃や百日紅。 (暑いなぁ・・)とうだる暑さに汗をぬぐうとき、咲く花には爽やかさと
元気がもらえるような気がする。
夫の実家の義姉さんは、みんなが使った沢山のお布団を干し、夏布団を洗い、シーツもかけ直していることだろう。
私たちが引き揚げても、後始末は残っている。
寝ていても気になるのは朝の風景。 いつも5時過ぎには目覚める。 兄嫁さんも早い。
6時前だった。 もう昇りかけている・・ 丘へ歩いて行った。 写真が撮れるところまで。
時すでに遅し・・
いちじくが熟れるのはまだ? 遅い?
やはり夫の実家のトレードマークは・・これ
朝友人が、昨夜の花火写真をA4サイズに印刷して、封筒に入れポストにいれてくれていた。
彼の撮影する姿は何処でも見かけるし、声が低いし目立つし有名だと義兄さんが言う。 そりゃぁそうだろう、花火でも三脚つきカメラ三機スタンバイ。
9時、因島の妹の家へ長女を送って行く。
家に着くなり、庭の可愛いプールが目に入った。 昨年出来た初孫を入れているのが分かる。 みんなの笑顔や歓声が聞こえるようだ。
今日は妹夫婦の長男の挙式&披露宴が倉敷である。 仕事の都合で後になり親子3人の挙式である。
兄弟は出席しないが、長女は常々甥っ子とメールで交流しているし、カメラマンとして招待された。
玄関で目についたのが、妹の折り紙細工を飾った額。 姉妹4人いる中で、細かい事の苦手な私が一番こう言う事は不器用だ。
必ずシャッターを押してしまう生口橋。
ヤシの木があるだけで雰囲気が違う。
最初は因島を回ろうかと言っていたが、夫は今や詳しくもなくやめた。
夫や娘親子が海に浸かりに行くと言う。 なつめが「ばぁば、写真撮りに来てよ」 せがむので、義姉さんには悪いなと思いながら、ついて行った。
きれいな海である。 太陽は照り付け暑いのに、見ているだけは結構きつい。
阿波踊りではないが、泳がな損損とは思うが、トドと言われる私だが、海に入る勇気がない!
昔から見慣れた造船所のある風景・・何度見ても見飽きない風景。
昔は真ん中辺のこの波除みたいなのが石垣で、夫はこの先から飛び込んだのだ。 浅瀬だったのに。
友人がいつもこの左側から、釣り船を被写体に陽が昇る朝の風景を撮っている・・スポット。
下の弟夫婦も揃ってお昼。 その後はなつめが精一杯のサービス、かんたと皆の前で迫真の演技で笑わせた。
申し訳ない、義母さんの顔を見に・・と言っても、兄さん夫婦には特に義姉さんには大勢がお世話になった。
お線香をあげて5時前、また細くなった義母さんの手を握って別れを告げた。 「ありがとうございました」 他人行儀みたいに言う義母さん、
言葉をかけるのも、帰るのもちょっと辛い。 たった2日間で帰るが、お兄さん夫婦の介護はまた延々と続く。
ほっとするのは、週2回のデイサービスと月に1度のショートスティに行っている時間だけである。
福山西でお土産を買う。
「虹や!」 大阪は雷雨でえらい大変だったようだ。 少しの時間虹を見ることが出来た。 写真には写っていないが二重の虹だった。
3歳のかんたが「かんちゃん虹、うまれて初めて見た」 そんなことを言ったのがおかしくて、みんなが笑った。
虹を見るとなんだか得したような、幸せ気分になるから不思議である。
倉敷に入っては、長女が詳細に地図をプリントアウトしてくれていたので見ながら、なんとか行けた。
近くで食事して、式場の駐車場で待機していたら庭から花火があがってびっくり、披露宴の終わりのサプライズの花火だったそうだ。
8時、披露宴出席の友人たちが大勢出てきた。 中では新郎新婦子供と、写真撮影が行われていた。
甥っ子が作陽高校サッカー部時代、一緒にやってきて今はJリーガー、サンフレッチェ仲のいい青山君、いつも話には聞いていたが、10人位いた
同じサッカー部仲間がいたが、やはり目立ってかっこ良いいし、違う。
昨日新潟で試合があり駆けつけたようだ。 青山君だけにはどうしても出席して欲しいと挙式披露宴の時間を遅くに設定していたらしい。
甥っ子夫婦の子供を始めて抱かせてもらった。 妹夫婦や次男君にも挨拶をし、長女を乗せて会場を後にした。
渋滞も少しあったが義姉さんを送り、次女を降ろし我が家へ着いたのがちょうど午前0時だった。
長女と夫の運転ご苦労さま。
土、日の2日間義母さんの顔を見に・・とは言うものの、私も同郷と言う事で実家にも行くし、ばたばた・・夫の実家の兄嫁さんともっと話が
出来れば良かったのに、いつも申し訳ない。
老いて子供に返りし姿、若き未来へ向けて生きし姿、自分も通った道であり、また通る道でもある。
夏、 夫の実家を思い浮かべるとき一番に出て来るのは”ノウゼンカヅラ”兄嫁さんが植えたのだろうか。
私の中では帰る度に暑い夏、枝垂れて咲くノウゼンカヅラはこの家の花、そんな風に思っている。
そして庭の花は・・義母さんは「きれいじゃのう」そう眺めていたに違いないが、今は花の中に兄嫁さんの少しの息抜きのような姿が見えてしまう。
義母さんは以前は早くから起きていたのに、今では起こさないと起きないらしい。
お墓参りに行った。 義兄さんが孫たちを順番に抱きかかえ鐘つきを・・お兄さんはいつもとても良く可愛がってくれる。
この1年半で3人の娘さんが結婚された。 我が孫だったら又どんなにいいだろう、早く孫が出来たらいいのにねと祈りつつファインダーを覗く。
新しくなったお寺、整地された墓、お参りがしやすくなった。 ここから眺める景色には、優しかった義父さんの顔が浮かぶ。
義兄さんと義姉さんが買い物に行き、兄嫁さんと昼食の用意をする。 嫁同士、なんでも聞いてあげるよ・・そんな気持ちである。
この間に夫や娘たちはかんたがあせも持ちなので、海に浸かりに行った。 誰もいない海、まるでプライベートビーチだったと夫は言う。
”先の鼻(さきのはな)” 高校の時だったか、遊びに行った時夫は泳いでいて向こうの堤防から「おーい」いと手を振って助走をつけ飛び込んだ
それはいいが、浅瀬でそのとき足を切ったような・・恰好良く見せるはずが、逆にびっこをひき情けない所を見せられた記憶がある。
義姉さんや義兄さんが買い物帰りに寄ったようだ。 こんなショットはまぁ無い。 義姉さんが、「入りたかった~!」
お昼には弟夫婦も来て賑やかな食事だった。 普段は3人なので、義母さんはどうしたことかと、戸惑っていたかも知れない。
3年前なら笑顔いっぱいで、冗談も言って笑っていたのに・・ね。 顔を見ると辛いと言うか、私は義母さんにあまり話しかけられない。
午後の予定は、実家へ行き、お墓参り、後ドルチェへ寄って、夜は恒例のバーベキュー。
瀬戸田の花火大会があると言うので、道路事情を考えドルチェを先にした。 夫と娘たち5人・・
私はドルチェには行かず、4月最愛のお母さんを見送ったT美の所に行く為に途中で降ろしてもらった。
事前に帰省を葉書で知らせていたが、会えるかは分からないと思っていたが、電話をしたらいたので、突然だったが寄らせてもらった。
彼女とは小学校何年生の頃からだろうつきあい始めたのは、良く覚えていないが以来高校は同じで毎日一緒に通った仲、交流は今に至っている。
お母さんは彼女が定年退職するまで家事をし家を守っていた。 2年前T美が定年退職して家事を交代したが、ゆっくりと娘と過ごす事が出来た。
しもの世話をすることもなくただ、食事が入らなくなり1週間ほどの入院で帰らぬ人となった。 97歳の大往生だった。
お線香をあげさせてもらい、葬儀の写真を見ながらおばさんの話で少しの時間を過ごした。
おばさんが寝ていた部屋に寝ていると言う。 いつも笑顔で迎えてくれたおばさん、最後に会ったのはいつのことだろう。 優しい旦那さんににも会えた。
あっと言う間だったが、お線香があげられ良かった。 気になるもう1人のU子にも会いたかったが、お土産だけことずけた。
夜、花火大会があるサンセットビーチ。
しまなみ海道をTV番組で見ることは多い。 見るたびに懐かしさで夫と心を躍らせている。
多々羅大橋を見ると、自分が素晴らしいこの島で生まれたと言う自慢、それを再認識しつつ、なぜか心安らぐような気がしている。
実家の庭にはさるすべりやバラの花が迎えてくれた。 そしていつも兄嫁さんが活けてある玄関の花には、庭のサルスベリが入っていた。
兄は朝から花火大会の世話役に行っていて、会えなかった。
一昨年末、胃を全摘し減った体重、元気だと言うが会ってその元気を目で確かめたかったのに残念だった。
義母さんとは3つ若い母だが、義母さんを思うと母はまだ 手芸をしていてしっかりしていると思う。
「今年はもう、テレビの子守よ、暑いし寝たり起きたり」 電話では大抵こう言っていたので、夏は手作りのもの、していないんだとそう思っていた。
だから「いるのがあったら持って帰りんさい」 見せてくれた作品の数々に、(お母さん、やってるじゃん!) その気力が嬉しかった。
母の場合、本当に弱った時にはもう針は持てないだろう、そう思っているので(まだ大丈夫)それに子孝行にと健康には特に心がけていることで、
きっと母は手を煩わすことなく生涯を終えるのではなかろうか・・そんな生き方をしているような気がしている。
26日には、兄夫婦、孫、ひ孫11人で宮島に観光に行くらしい。 夫には申し訳ないくらいな、今の母の様子である。
この母を支えてくれているのが、私より1つ年下の兄嫁さん。 私よりもずっと仲のいい母娘のように思っている。
笑顔がいい、いつも笑顔で精一杯のもてなしをしてくれる。 母がいつも有難い、感謝、幸せじゃ、そればかりを言うのが良く分かる。
電話さえ遠のいている時もある私なのに、夫の実家同様365日を過ごしている日々、帰省するたびにもてなしの心が笑顔から溢れている。
硬ぶつで厳格だった(過去形)兄にも仕えながら、上手にいい夫婦をしている。
まさに長男のお嫁さん、母の世話、介護師、しかし繁忙な中にも多趣味で手芸。家具造りなど楽しみも持ち合わせ、すごい人である。
母を看るながら、妹さんがケアマネしている関係で、週2回お泊り介護をしている。 甥っ子のお嫁さんは看護師だし・・母は手厚く守られている。
花火大会には間にあうだろう2人の甥っ子家族には、仕事で残念ながら会えなかったが、ちゃんと娘や愛ちゃん孫4人私にまで色んなお土産を
用意してくれていた。 若いのに・・看護師さん、幼児2人の子育て・・繁忙な中にもいつも心を使ってくれる若い夫婦には頭が下がる。
私は実家に寄っても母と2人で話す事は殆ど無い。 それよりも義姉さんと話す事が大事だと思っている。
母には愛想の無い娘かも知れないが、母は義姉さんに充分に尽くしてもらっているので、それでいいのだと思っている。
この度は兄嫁さんともゆっくり話す間もなく、ケーキをいただきお墓参り・・と慌ただしかった。
「みくさん、見て!」 帰り際母の部屋の前にはびっしりのゴーヤの緑のカーテン、陽が少しでも緩和されるようにとの、義姉さんの心を見た。
お盆を過ぎたお寺や墓所はひっそりとしていた。 私が幼稚園時代を過ごしたお寺である。
お墓は海の見える所がいいと言っていた父、そんな父は海で亡くなった、還暦も迎えずして。
だから89歳の母はよけいに、お父さんが生きていたらこんなにいっぱい嬉しい事があったのにと、残念さを口にする。
いつもならお墓参りの帰りはお寺の下の父の親元で、叔母さんがお抹茶をたててくれて、スイカやなんやと歓待してくれていたのに・・
昨年早々他界し、今は誰も住んでいない広い家。
海の見える風景は変わっていないが、40年近くも続いた恒例の叔母さんの家でいただくお抹茶のもてなし、それが無くなったことが寂しい。
夫の実家に戻ったら、長女さん夫婦が来ていてバーベキューの準備がなされていた。 私はお婿さんに初めて会った。 感じのいい人だった。
娘さん3人にお婿さんがついて、兄嫁さんが「このお盆には初めて6人が揃った」と嬉しそうに話してくれた。
義兄さんは、とりわけ男の子の存在を嬉しく思っていたのでどんなにか嬉しく頼もしく思ったことであろう。
バーベキューの準備と言うと、夫や弟の出番だったが、若者に変わった。 爽やかな光景だった。
今は毎日いる義兄さんでさえ、息子と分からない義母さん。 一緒にテーブルを囲んだが落ち着かないらしく、食べると早々に部屋に戻られた。
部屋から眺めている潤んだような義母さんの目に、どんな風にこの光景が映っているのだろうか。
(義母さん・・あなたが育てられた子供たちですよ・・お陰で私たちはいつも仲良くさせてもらっていますよ、有難うございます)
そう思いながら義母さんを見ると、涙が出そうになる。
男4人、女1人の兄弟夫婦、私たちが帰省すると言うと、義兄さんは必ず弟たちに声をかけてみんなが揃う。 いつもいつも。
兄弟が多いと疎遠になっている家もあると言う話しを聞く中で、本当に有難いし感謝である。
何と言っても一番お世話になるのは兄嫁さんだ、夫も私も優しい兄さん夫婦、温かい実家があることをとても幸せに思っている。
瀬戸田の花火大会、どうしても気になると言うので夫や弟娘や孫と駄目もとで出かけて行った。
多々羅大橋の手前で道路わきに車を止め、充分に眺められたそうだ。 電話が入った。 「お母さんも来たらどんなに良かったか!」
いえいえとんでもない、私が色々と楽しむ訳にはいかない、お世話下さる兄嫁さんを思うと。
10時前、花火撮影帰りの同級生、生口のアマアツさんがお土産に梨のジャムを届けてくれた。
密なスケジュールだったが、兄弟の和やかな交流、これも無き義父さんや義母さんのお陰である。 (夫画像)
夜10時に出発しようと言うことになっていた。
夫は先週法善寺横丁のお祭りで卓球を休んだので、今日はもう休めないから行くと言っていた。 だから10時・・そこに合わせて一日を動いた。
まだ用意は出来ていないものもあったし、お土産の点検や衣類を詰めたり。
毎年開催される”サマソニ”で我が家に泊まっている夫の甥っ子、私たちが帰省すると言う事でホテルをあたったが無く、私も近所を聞いたが駄目。
鍵を預けて、我が家に泊まってもらうことにした。 冷蔵庫に飲料や果物やパンや用意、お布団やあれこれ準備。
目の手術で田舎にも心配をかけたので報告と、左目もまたするしお墓参りをしたいと言うので、次女となつめかんたも一緒に帰る事になった。
長女は日曜甥っ子の結婚式にカメラマンとして参加。 もちろん、後アルバムやDVD作成、得意な分野を受け持つことになっている。
夕食は我が家で。 卓球に行くはずの夫は、やめたと言う。 義姉と昼間、早く出て夜中に着くように帰ってもいいなぁと話していたようだ。
なんてアバウトな。 それならそれで早く伝えてくれればいいのに。 それに兄嫁さんとはお昼に、明日朝8時半ごろ着く事や朝食は福山西でするから
と話した所。 急きょ変更になった事を丁重に言ってくれると思いきや「あの、8時頃出るわ、ほんなら夜中に着くやろう。 福山西で美味しいパン買って
行くから朝ごはんはええで。 娘たちは朝はパンやから」 なんていい加減な事を言うのだろう。
夜中にパンなんか焼いて売って無いし、娘たちは朝はパン? 勝手な事言う、兄嫁さんに失礼やわ。
「お布団敷いておきましょうか」「ええで、こっちが敷くから」 有難うございますでいいのに、兄嫁さん敷いてくれるに決まっているのに。
兄嫁さんの立場に立ってちゃんと丁重に言ってくれたら帰りいいのに、電話の応対を聞きながら冷や冷や。 それに帰宅するなり、8時に出発なんて。
甥っ子は19日の夜泊まるはずが、「今日から行った方が都合がいいから」と電話があり。 それはいいのだが、もうバタバタ・・。
私、シャワーもしてないし、田舎へ持って帰る写真も印刷してないし・・あ~・・
ちょっと不機嫌、帰ると言うのに。 平常心、平常心。
「もう今日は卓球は休まれへん」 「休んだらいいやん帰るのに、9時に帰って洗濯も出来ひんやん」 「あんたにはその辺のこと(大事さ)は分からん」
そんな言い合いをした朝だったのに。 急に変更になったのに、簡単に兄嫁さんに言う。 この辺が夫と合わない。
8時前に出発、城東の姉を迎えに行って一路、しまなみは生口島へ。 対向車線は混んでいた。
下りはなんとか普通に走行出来た。 福山西・・「何にもないわ」 夜中である、パンが無い事くらい分かってるそんなこと。
午前0時夫の実家に着いた、 兄嫁さんが待っていてくれて座敷には冷房入れてみんなのお布団を敷いてくれていた。
夜中走るよりも、着いて寝られる方がいいのだが、色々な思いをした帰省に向けた夜だった。 男と女とでは立場が違うのだが・・。
しかしいつも笑顔で気持ち良く迎えてくれる兄嫁さんの顔を見るとほっとした。 義母は寝たり起きたり・・。
私も夫も分からない・・うつろな目の義母を見ると心が痛い。 すぐには寝られなかった。