非を認めることは「負けじゃない」 嫌われる勇気から
息子が読んでいた本をちらっと見たときにこれは自分にあてはまるなあと思った部分がちょうど開きました。うーん、こう考えるといいのかと納得した自分が今した。意外とあてはまる方がいるのでは無いかなと思って紹介します。
本は、
嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドらー」の教え 著者 岸見一郎 古賀史健 ダイヤモンド社
です。
非を認めることは「負け」じゃない
青年 じゃあ、面と向かって人格攻撃された場合はどうすればいいのですか?ひたすら我慢するのですか?
哲人 いえ、「我慢する」という発想は、あなたがいまだ権力争いにとらわれている証拠です。相手が闘いを望んできたら、そしてそれが権力争いだと察知したら、いち早く争いから降りる。相手のアクションに対してリアクションを返さない。われわれにできるのは、それだけです。
青年 でも、挑発に乗らないことなどそう簡単にできますか?そもそも、どうやって怒りをコントロールしろとおっしゃるのですか?
哲人 怒りをコントロールする、とは「我慢する」ことですよね?そうではなく、怒りという感情を使わないで済む方法を学びましょう。怒りとは、しょせん目的をかなえるための手段であり、道具なのですから。
青年 ううむ、むずかしい。
哲人 まず理解していただきたいのは、怒りとはコミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能なのだ、という事実です。われわれは怒りを用いずとも意思の疎通はできるし、自分を受け入れてもらうことも可能なのです。それが経験的にわかってくれば、自然と怒りの感情も出なくなります。
青年 でも、相手が明らかな誤解に基づく言いがかりをつけてきたり、侮辱的な言葉をぶつけてきたとしても、怒ってはいけないのですか?
哲人 まだご理解されていないようですね。怒ってはいけない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」のです。
怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。だからこそ
「ついカッとなって」などといった言葉が出てきてしまう。怒りを頼りにコミュニケーションしてしまう。
青年 怒り以外の有用なコミュニケーション・・・。
哲人 われわれには、言葉があります。言葉によってコミュニケーションをとることができます。言葉の力を、論理の言葉を信じるのです。
青年 ・・・確かに、そこを信じなければこの対話も成立しません。
哲人 権力争いについて、もうひとつ。いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。
青年 なぜです?
哲人 人は、対人関係の中で「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。
青年 正しいと思っただけで?いやいや、なんて鼓張ですか?
哲人 わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。つまり、「わたしが正しい」と言う確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全なる権力争いでしょう。
青年 ううむ。
哲人 そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。だからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです。
青年 たしかに、その側面はあります。
哲人 負けたくないとの一心から自らの誤りを認めようとせず、結果的に誤った道を選んでしまう。誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これはいずれも「負け」ではありません。
優越性の追求とは、他者との競争によっておこなうものではないのです。
青年 勝ち負けにこだわっていると、正しい選択ができなくなるわけですね?
哲人 ええ。眼鏡が曇って目先の勝ち負けしか見えなくなり、道を間違えてしまう。われわれは競走や勝ち負けの眼鏡を外してこそ、自分を正し、自分を変えていくことができるのです。