soulismさんの
C型肝炎の経験者 ~治療から完治と、その後~のブログから
そうだなあーって、思うことが書いてあって、転載の許可がもらえたのでのせてみます。治療中や人生において同じような気持になる方って多いと思います。乗り切るための発想法の一つとして是非試して欲しいです。
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嫌がらせに負けない方法 2009-12-17 00:25:41 テーマ:C型肝炎
〝誤解〟を含む〝うわさ話〟には 我慢できない感情がふくまれた『脚色』があるものだと私は嫌がらせを受けて学びました。ときに、その脚色は〝牙や角〟となって鵜呑みに信用した人が私に突進してくることもありました。どうして『私に確認もしないで信用してしまうのか?』嫌がらせに、もう1人が加わったときは本当に孤独な想いでした。その場所の、いままで十分知っている人さえも不信に思えてしまうのでした。大人になってこういう思いをするとは。。。C型肝炎治療中であることも含めて自分が情けなくもなりました。
けれど、私には〝自分を信じる〟冷静さがありました。それは、私のなかで何百回も『なぜだろう?』と考えた先に嫌がらせだとわかったからです。
相手はそれを〝正義〟だと思ってるかもしれませんが、嫌がらせは、つまり〝いじめ〟です。私が治療中であることも相手は知っているし、それでも、私を外そうとする様々な発言や行動には思いやりは見当たりません。その状況では自分を自分で守るしかないと私は思いました。だから〝自分を信じる〟気持ちが働いたのだと思うのです。
こういうときの人間は孤独で、人間不信で、自分が情けなくもなります。でも、〝つじつまが合わないことに無視はできません〟でした。だから〝いじめ〟だと気づけたのだと思います。
病気でいるために嫌な思いをさせられている方もたくさんいらっしゃると思います。でも、それは病気が悪いのではありません。それは、嫌がらせをする人に問題があるのだと私は思います。
病気ではない人も、日常や職場、人が集まる環境にも〝嫌がらせ〟は存在するでしょう。それも、嫌がらせをする人の問題だと、私は思います。
なぜなら、理性が働けば、つじつまの合う行動や発言になると思えるからです。
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嫌がらせに共通する〝つじつまが合わない〟こと 2009-12-18 00:11:41 テーマ:C型肝炎
私が嫌がらせを受けた経験に共通するのは、つじつまが合わない行動や発言でした。全く身に覚えのない話しが周囲に広がっていたり、あまり話をしたこともない方からいきなり感情をぶつけられたりもしました。私にとっては、どれもつじつまの合わない疑問だらけの出来事でした。たとえば、正義感を持って、人に注意を施すならば本人にむきあって話せるはず、と私は思うのです。正義を感じているならば、後ろめたさはないはずですから。
けれど、当人を介さずにその人のことを周囲の人たちだけであれこれ言っても何も意味をなさないし、解決にもならないと思うのです。
つじつまの合わない発言も、嫌がらせをしている方の感情が制御できなくなると〝嘘〟になってしまいます。
そのたびに、私は『嘘とわかってしまうのに、なぜそういう話をしてしまうのだろうか?』と、その心理が本当にわからなくてとても多くの悩む時間を費やしました。それは、嫌がらせの方にも〝目的がある〟ことに気づいたのでした。
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人のふりを見て、自分も学ぶ 2009-12-19 00:37:14 テーマ:C型肝炎
私が経験した嫌がらせは、C型肝炎の治療の真っただ中でした。おかげで気持ちの動揺が体調に影響し、いちばん心配だった検査の数値にも出てしまったこともありました。『これ以上に動揺したら、インターフェロン治療も無駄になってしまう』そう思った私は、命がけで自分を守ろうと思いました。
その守る行動は、嫌がらせに対して〝私の感情を表さない〟ことでした。どんなに腹立たしくても沈黙を続けました。
なぜなら、嫌がらせの相手は私が感情的になって騒ぐことを待っているのだと思えたからです。相手は現実にないことを数人に話していましたから私が感情的になって躍り出してしまえば〝やっぱり、本当だった〟となってしまいます。ですのでその裏をつくしかないと思ったのです。
それは半年以上を要した、孤独な沈黙でした。けれど、その沈黙のなかで徐々に相手の気持ちがわかり始めたのでした。相手はただただ私が邪魔で私が身を引くことを願っていたのだと思うのです。だから、自分がつじつまが合わない発言をしても〝それはどうでもよいこと〟なのです。それよりも私がいなくなることだけを考えていた、のだろうと思います。それがその方の目的だった、と思うのです。
その方には私の存在がとてつもなくお気に召さなかった、のかもしれません。本来なら、そのことを直接話して下さっても、私はよかったのです。けれど、そういうことは一度もなかった。ということは。。。その方にも、自分がしていることに〝後ろめたさを感じる何か〟があったのだろうと思うのです。でも〝後ろめたさ〟よりも〝我慢できない〟ほうが勝ってしまい嫌がらせという行動を起こしたのだろう、と私は理解しました。
〝我慢できないから邪魔〟ということしか見えなくなるとその目的を果たすまで進んでいってしまうそういう方だったのかもしれません。そこには、もはや理性はないです。だから、自分のつじつまが合ってないことに、違和感さえ気づけないのかもしれません。
私には、『人のふりみて、我がふり直せ』の心境でした。その方のおかげで、私は新たに気づけたし、徳をいただいたのだから、経験してよかった!。。。そう思えるまで、時間はかかりましたが、いまは、心から良い(新しいことを知れた)経験だったと思ってます。