今日、読んだところから。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣(つるぎ)よりも鋭(するど)く、
たましいと霊(れい)、関節と骨髄(こつずい)の分かれ目さえも刺し通し、
心のいろいろな考えやはかりごとを判別(はんべつ)することができます。
造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、
神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。
私たちはこの神に対して弁明(べんめい)をするのです。
(新約聖書・ヘブル4:12-13)
人について、いろんな捉え方がある。簡単には「心と体」と分けて考えることもできるし、まあごちゃごちゃと複雑に考えることもできる。
聖書では「たましい、霊、肉体」と3つにわけて捉えていることが伺える。
では、「たましい」と「霊」って、どこからどこがたましいなんだろう?何が霊なんだろう?
身近なところ(?)で、体にある「関節」と「骨髄」の分かれ目のような感じなのだろうか。(この時代に「骨髄」という概念があったことに、驚くキャベツ。)
とにかく、神様の目には、すべてがお見通し、ってことさ。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣(つるぎ)よりも鋭(するど)く、
たましいと霊(れい)、関節と骨髄(こつずい)の分かれ目さえも刺し通し、
心のいろいろな考えやはかりごとを判別(はんべつ)することができます。
造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何一つなく、
神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。
私たちはこの神に対して弁明(べんめい)をするのです。
(新約聖書・ヘブル4:12-13)
人について、いろんな捉え方がある。簡単には「心と体」と分けて考えることもできるし、まあごちゃごちゃと複雑に考えることもできる。
聖書では「たましい、霊、肉体」と3つにわけて捉えていることが伺える。
では、「たましい」と「霊」って、どこからどこがたましいなんだろう?何が霊なんだろう?
身近なところ(?)で、体にある「関節」と「骨髄」の分かれ目のような感じなのだろうか。(この時代に「骨髄」という概念があったことに、驚くキャベツ。)
とにかく、神様の目には、すべてがお見通し、ってことさ。