(これは、過去の、そして、今の、そして、未来の該当者へ。一人でもあり、さまざまなある人へ、だったりする)
ああ、どこから言えばいいだろうか。
何を言ったらいいのか。
まあ、まあ、きみの話を聞かせておくれよ。
ああ、そうだったね。
私がしっかりと信仰生活を送っているから、絶対にこの気持ちはわからないだろう、と言っていたね。
いやいや、そんなことはないよ。
(人には知られずとも、何度も失敗をし、何度も後悔をし、10日の道のりを40年さまよったイスラエル人を笑えない者なんだがね。ほら、昨日だって、祈らずにバタンQして眠っちまった・・・いや、そういうレベルじゃないって言いたいこともわかっているよ
)
もしも、もしもだよ、私が主の御目にかなった歩みをしているんだとしたら、
ただそれは、神さまの恵みによるのみ。
決して、私が、ではない。
失敗もしている。
ああ、そうだね、もちろん、同じ失敗じゃないかもしれない。私のほうが、もっとひどいかもよ?(^_-)
(恥ずかしくて、言えんって)
だが、それでもね、こんなヤツでも、神様は、救ってくださって、歩むべき道も備えてくださっているんだよ。
こんなヤツでも、救われているんだよ。
おや、あまりにひどすぎて、神様の御元に行けない、だって?
どうして、そう思うんだい?
周りが立派だから?
冷たくされるって?
あはは、感受性強いなぁf(^^;)
・・・だが、もし、自分を神様の基準に照らし合わせたら、
多少、軽視されているように感じたとしても、楽に耐えられるよ(痛いけど)。
もともと、私たちは、神様の憐れみがなかったら、
イエス・キリストによる贖いがなかったら、
呪われた罪人(つみびと)だ。天国に本来決して入れなかった者だ。
だから、もし、そうされたとしても、しゃ~ないやないか。
だが、その痛みを知っているなら、ほかの人には、そうしないであげてくれよ?
ただね、・・・ひとつだけ、間違っていることがあるよ。
そんなとき、御元に行けないって悲しんで、その挙句、離れるのは間違っている。
もちろん、罪を犯したならば、それをえばる必要もないし、
それを悲しんだら、悔い改めて、その上で、御前に出るべきだけど。
人知れず、神様に、
「ごめんなさい」と謝って・・・
そして、その分、感謝しなきゃ。
いいかい? イエス・キリストの贖いは、やぎや雄牛とは違うんだ。
ただ、一度っきりで、過去の分も、今も、これからの分もすべて、贖ってくださったんだ。
それを感謝せずに、ただ一人でうじうじするほうが、失礼じゃないか。
大丈夫、大丈夫だから。
なんたって、神様はすべてをご存知だ。
私がとってもおバカだってこともご存知だし、
(いや、それは皆知ってるからって、つっこむか、そこ(苦笑))
きみが、何をしたのかだって、ご存知。
それでもなお、きみを救おうとなさったんだ。
そして、もう、贖いは完了したんだ。
もちろん、同じことはしないように、努力しようね。
じゃないと、神様が悲しむでしょう。
神様は赦(ゆる)してくださっている。でも、許(ゆる)してくださっているわけじゃないしね(^_-)
え?
どういうことって?
だから、きみが犯してしまった罪は、十字架の贖いのゆえに、もう赦されたでしょう。もう、イエス様が肩代わりしてくださったでしょう?
でも、これからも、同じことを繰り返し、何度でもやってもいいって、許可されているわけではないでしょう?
そういうことだよ。
ほら、ヨハネの8章に、姦淫(かんいん)の女が捕まえられて、イエス様のところまでしょっぴかれたことが書かれていることを覚えている?
あのときだって、イエス様は、
「罪に定めない」と言いつつ、
「今からは罪を犯すな」
と、おっしゃったじゃないか。
(だがね・・・それでも、なお、罪を犯し続けてしまう(というか、失敗し続けている)バカも、ここにいたりするんだよね。それくらいなら、さっさと地上から取り去ってくださればいいのに、って思うのだが
ハァ… ・・・神様のご計画はわからない)
ちなみに、「これをしたら、罪になるだろうか、ならないだろうか」って、
まるで、法律ぎりぎりなのかどうか、みたいな考えではなくて、
どうしたほうが、神様の御心にかなっているのか、という点で考えようや
いいかい。
私たちは、自分の肉のゆえに弱いけれど、
それ以上に、神様の恵みは大きいんだ。
ただ、神様が愛してくださったから、憐れんで下さったから、
私たちは、こうしていられるんだよ。
そのことを忘れてはいけない。
だから、朝に、夕に、小さくてもいい。
感謝して、祈っていこう。
祈りの香を御前に立ち上らせよう。
そして、聖書を開いて、
さらにさらに、深く教えていただけるよう、願いつつ、
日ごとのマナをかみ締めて、味わおう。
そうして、ともに、賛美しよう