さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

日本どころかこの世にも

2011-05-30 22:45:35 | Monday ゆかいな言葉たち

 中国の人になら、
「ニーハオ」

 韓国の人になら、
「アンニョンハシ(ン)ムニカ」

 フィリピンの人になら、
「マガンダン ウマガ」
(朝の挨拶なのに、午後でも、未だに“magandan umaga”で押し通している)


 ミャンマーの人になら・・・
何て言えばいいのだろう。

 忘れるのが得意なキャベツは、教えてもらったたった一つのモンゴル語も
忘れてしまった。



    ***********

 そんなあるとき、ご高齢の男性が来られた。
 どこの人? アメリカ? カナダ?
 英語only?日本語OK?

 だが、彼は、
 とても日本語が流暢(りゅうちょう)だった。


 そこで、キャベツはふと尋ねた。
「日本には、何年ほどいらっしゃるんですか?」


 すると、彼は、にっこりと言った。
あなたより、長いよ。多分、倍くらいじゃないかな?」




           

        


 ちなみに、在日40年とのこと。
 確かに、私より、在日期間も長い。

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遠い声がする

2011-05-29 20:33:10 | 日々の雑感

 遠い声がする。

 遠く、小さく、激しい声が、聞こえる。

 愛されたい、

 愛されたい、

 私は愛されていない、

 私は愛されたいのだ、と。


    *************


 「ごめんなさい」って言ったのかな、

・・・ふと、そんなことを思った。

自分をも、他人さえも、呪ったところで、何になろう。


    *************


 確かに、人は「人の変わらぬ愛」(箴言19:22)を 求める。

  だが、

 「愛サレタイ」ト思ッテイル間、

 人ハ 飽(ア)クコトヲ 知ラナイ。



    *************


 ましてや、

 自己憐憫(じこれんびん)に浸ってしまうと、

 「(ある時期の)ナオミ」さんのように、

 周りがどんなに愛してくれているかも、

 神様がどんなに恵んでくださっているかさえも、






       気付けない。


            

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晴れのち、嵐

2011-05-29 18:45:24 | Sunday 集会・生活
(いつか、また、喜ぶ日が来たときのために、記す。)



 ・・・やはり、順風満帆とはいかないのか・・・。



         ************


 「おかえりなさい」と喜んだのもつかの間、彼の人は、
 嵐に巻き込まれた。

 (どちらも)可哀そうに。


 兆(きざ)しが見えたとき、
必要最低限な所に台風警報を発しておいたが、
-逆に、人には「そんなことで」と笑われる程度の兆しであったが-
直後に勃発(ぼっぱつ)。
・・・何の役にも立たなかった。




 すでに1ヵ月。
 しばし、時が必要になるだろう。



       **************


 ただ、もう一つ確信していることがある。

「…すべてのこと相働きて益となる」(ローマ書8:28)

ということを。
 少なくとも、無駄にはなるまい。


 時(とき)至るまで、
 また、祈っていこう…。

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時(とき)

2011-05-28 22:37:50 | Sunday 写真&みことば
(↑朝日)



 天の下では、何事にも定まった時期があり、

 すべての営(いとな)みには 時(とき)がある。

 生まれるのに 時(とき)があり、

 死ぬのに 時(とき)がある。

 植えるのに 時(とき)があり、

 植えたものを引き抜くのに 時(とき)がある。


    ・

    ・

    ・

 捜すのに時(とき)があり、

 失うのに時(とき)がある。

 保つのに 時(とき)があり、

 投げ捨てるのに時(とき)がある。

 引き裂くのに 時(とき)があり、

 縫い合わせるのに 時(とき)がある。

    ・

    ・

 愛するのに 時(とき)があり、

 憎むのに 時(とき)がある。

 戦うのに 時(とき)があり、

 和睦するのに 時(とき)がある。


         (旧約聖書・伝道者の書3章1-8節)

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墨絵

2011-05-25 18:00:39 | Tuesday 病院

 CTの3次元画像や、
流れて行くような画像(アキシャル)の動き。
CTAの血管の画像。

それらにときどき見ほれるけれど、

「これ、アンギオ(血管造影)ですか・・・?」
「そう、アンギオだよ」


(シンシュウが大きいので、あまり行うものではないが)

 ・・・アンギオでの血管の画は、まるで墨絵のように
美しかった。

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おじちゃん

2011-05-23 22:51:56 | Monday ゆかいな言葉たち
 おじちゃん。


 ・・・これは、一体どういう響きを持つのだろう。


    ************


 最近、どこぞでは、朝っぱら(AM5:45)から、
姪っ子が「おじちゃん!」と、訪問して(=押しかけて)きて、
おかげで朝飯前からゲームの相手をさせられていた、という、おじちゃんがいる。

 いやはや、めんこい話だ。
 集会では、そういう姿はとんと顔を出さん(いや、出せん)けど。

 こんなとき、「おじちゃん!!」
という言葉は、とても可愛らしい響きなんだろうなぁ。


    ************


 そして、ふと、5年前、キャベツはこんなお願いをされたことを思い出した。
(以下は内輪ネタ、ただのつまらんネタですf(^^;))


    ************


  ある日、突然に。

「キャベツ、早く結婚して!!」

 (キャベツ兄弟4番目)がこう言って、キャベツに向かって手を合わせた。


「お願いしますよ~、キャベツ兄/姉様♪
 この一年の間に。
 この通り、お願い! ねっ、お願い! お願いします!!

 ・・・は、キャベツ兄弟のおじのあっきと同様に、18,19離れた甥っ子か姪っ子が欲しかったそうな。
 絶対ムリだ、と言っても夢だったらしい。


               

 Kはこう、考えた。

 →今、俺、17歳だから、あと二年のlimit。

 →→ 今結婚できそうな(=可能な)奴は、キャベツとM希。だが、M希は無理。
    ってことは、残るはキャベツ!!

 →→→ 結婚してから子供が生まれるまでに一年は必要!(オイオイ)

 →→→→ ってことは、今年中に結婚してくれないと、
     18、19離れた甥っ子姪っ子は生まれない(T-T) 20以上離れるんじゃなくて、18、19がいいんだ!!

 →→→→→→ 急げ、キャベツ!! いえ、キャベツお兄/姉様!!



           




           




           








  ・・・従妹(いとこ)で我慢なさい。

 よほど、は「おじちゃん」になるのが夢だったに違いない。


           
             

(まあ、配偶者にしろ、子どもにしろ、神様からの授かりもの(いただきもの)さね・・・

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田植え

2011-05-21 07:56:59 | 日々の雑感
 最近は朝4時頃から、鳥たちのさえずり、合唱が始まる。朝が白み始めるのが早いと感じる。暖かくなってきた。


 とはいえ、今朝、車窓から久しぶりに水田を見たとき、はっとした。



 …もう、田植えの頃/田植えが終わる頃、なのか、と。
(そういえば、東京に移り住んでから、近所にはたんぼがなかった…(゜_゜…前の地名は「田無」というくらいだし)

 昔は、学校の裏手にたんぼがず~~~~~っと広がっていたのに、いつの間にか忘れていたらしい。季節ボケ、しそうだ。

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しろつめくさ

2011-05-17 23:09:35 | 日々の雑感
(写真は、一会さんのクローバーのブリザード)


 最近、
 家に帰ってくると、
 しろつめくさがたくさん出迎えてくれます。

 何の木かわからないけれど、
赤い小さな実が実り、道ばたに落ちています。
(食べられるかな?)





そして、朝起きると、
今日もまた、
青空が広がっていました。

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レ・ミゼラブル

2011-05-16 23:36:19 | Monday ゆかいな言葉たち
(ブログカテゴリー名(右上)を変えたいなと思いつつ)

 「レ・ミゼラブル」(ビクトル・ユーゴー)のある小さな、小さな一場面。


            ************


 ある日、彼はあるサロンで、まもなく判決がくだる予審中の刑事訴訟の話を聞いた。
 
               

 あるみじめな男が、
一文なしになったあげく、
女と、その間にできた子どもに対する愛情から、贋金(にせがね)をつくったのだ。


 贋金づくりは、そのころまで死刑だった。


               

 男のつくった最初の贋金を使ったために、女が捕まった。
 捕まえたけれど、本人の自白以外に証拠がない。
 自白して、情夫に罪をきせて、男の身を破滅させることができるのは、女だけだった。


               

 女は否認した。
 強要されても、女はあくまでも否認した。

 そこで国王の検事は一案を思いついた。
 情夫の不実(=浮気)をでっちあげ、手紙の断片をうまく綴(つづ)り合せて、
その不幸な女に、彼女には恋敵(こいがたき)がいて、男にだまされていると
信じこませることに成功した。

 すると、嫉妬(しっと)に怒り狂って、女は情夫を告白し、すべてを自白して、
すべてを証言した。男は破滅した。
 近く、エクスで、共犯の女と一緒に裁かれようとしていた。


               

 このことがみなの話題となり、検事の巧妙さに感心していた。嫉妬をだしにして、
怒らせて、ドロを吐かせ、復讐(ふくしゅう)心から正義を引き出したのだ。
 司教は黙って一部始終を聞いていた。話が終わると、彼は訊(き)いた。


「男と女はどこで裁判されるのかね?」

「重罪裁判所ですよ」


 彼はつづけて言った。

「それで検事は、どこで裁判されるのかね?」

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マッチポンプetc

2011-05-15 21:39:38 | Sunday 集会・生活
(雑記・ただのメモ)

 いつぞや…しばらく前になる…『マッチポンプ』という言葉を知った。
 恥ずかしながら、意味がわからなかったため、調べてみた。


         ***********


 『マッチポンプ』
  -(和製語。マッチで火を付ける一方、ポンプで消火する意)
   意図的に 自分で問題を起こしておいて 自分でもみ消すこと。
   また、そうして不当な利益を得る人。1966年の政界の不正事件で広まる。
                (広辞苑 第六版)

         ***********


 それを使った人々が、どういうことを指して、どのように理解して言ったかは
多少理解できる。
 だが、そうではないと、私は考える。 1)




 少なくとも、私は、
 神を『畏(おそ)れる』ことを、知っている故に。

 その恵みを、感じている故に。 


           


 …ただ、…認識されている人は少ないかもしれないが…

 前提条件が異なる中で、
 異なる世界観同士で、
 異なる背景がある中で、

 どのように何を伝えるべきかは、
 一部の人だけではなく、本来、
 一人ひとりが模索していく必要があるのだろう。



 この場合で言うなら、

「神を畏れることを知らない方に、
 その恵みを感じていない方に、

 何をどのように共有して(味わって)もらいたいのか」
だ。

 端的には、
「ユダヤ人に対してギリシャ人のように
 ギリシャ人に対してユダヤ人のように、
 -ex.使徒13章と17章の、対象と内容を逆転して-

 語ったら、とんちんかんだよね」

 という、自明のこと。


           

 どこを共通項として、話をすることができるのか。

 何もない?
 それなら、お互いが『違う』のだということを
認識すれば、いい。


           


 ありがたいことに、
 人一倍、ことばを紡ぐのさえ四苦八苦する私を、
 周りは暖かく見守ってくれているがf(^^;)



          ***********


【注】
1)私は考える: I think…という表現は、日本的でない上、クリスチャンとしては
     慣れない物言いではある。「私は」という表現は、自己を強く出している
     印象を持つからだ(私や私の周りにいるクリスチャン達にとっては)。

  だが、それを用いない場合、『逆に、エゴ(自我)を無意識に、それも、強く、高圧的な形で
 表現し、しかも、それにさえ自分では気付いていない』という、相反する現象
を生み出す。
 『自己』を無にし、『己(おのれ)』ではなく神を第一に、と真心からしようとしているのに、逆に、神ではなく、『自己』を強く表に出してしまう、
(言いかえると、他者の目には「自己を神と同一の位置に置こうとしている」と映ってしまう)
 という不思議な、奇妙なことになってしまうのだ。  …※1。



  ※1 むろん、これは、「ある価値観・信念・世界観を持つ者と、
 それを知ろうと思う者/他者/他の「価値観・信念」を持つ者etcとの間を想定して
 考えている。
 逆に、「同じモノを持つ(共有している)者同士においては、
 『私は~と考えます』という表現は、『邪魔(不必要、無駄、愚か、傲慢)』以外の何物でもない。



 ・・・本人(pl)は、全くその気はなく、それどころか、逆であるのに。




 ・・・(ある時)・・・それを認識したとき、頭を抱えた。
 恐らく、このメモを残したとしても、理解できる人は多くはないだろう。
 このようなメモを残したことで、わからない人のうちある人々は、憤慨するかもしれない。


 だが、私は、-書けないでいる多くの事がら(メモ)が残っている中-
 なぜか、これを示されてしまった。
(クリスチャン以外の人に言うならば「書かずにはいられなかった/どうしようもない衝動に駆られた」となる)。


 どうか、何らかの益となりますように






           


あるひとつの例を挙げてみる。

ex.「聖書はこう言っている!!」
という表現(をできるの)は、『自己を前面に出している』典型例。(みことばonlyを除く)
自己の知識・理解・知恵に全面の信頼を置いている、と誤解される。
(←優しい表現で言えば)

 同じ内容であっても、
「聖書を通して/聖書から、私は~~と示されています」
と言うならば、
(=と、自然と言えるようであれば)
相手には、おそらく、違った印象を与えるだろう。・・・※1




 …ちなみに、「印象を与える」「映る」という言葉に不慣れな方(違和感を感じる方)は、
「~と伝わる」ということばに変換していただければ、わかりやすいのではないか、と思う。
 そう、そのように、
「伝わってしまう」のだ。 …※2


本来、伝えたかったことが何であるかは伝わらずに
ただ単に、「この人は、エゴが強い/自分を高みに置いているのだな」ということだけが残る


 ※2・・・ここで「そのように伝わってしまう」
    というのは、とりもなおさず、(主観的には違うつもりでも)客観的にそうなのだ/そうしているのだ、
    ということ。





 つくづく、言葉は難しい、と感じる。

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