『これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、
神を見いだすこともあるからです。』
(新約聖書・使徒 17章27節)
(続き)
その後、元の話にいつの間にか戻り、同居人が、再度、
「そんなに心配なら、(自分を)洗脳でもして、信じさせておけばよかったのに」
と吐露(とろ)した。
先の話で、教育されてなくても聖書を信じる者もいるし、そうではない者もいる…という話のあとで、
こういう感想が出てくることに関して、誤解がないよう、私の知りうる範囲で記しておかなければならないことは、
この言葉(感想)は、この発言者の“好意”であるということだ。
************
この発言者
(同居人に限らず)は、今、そもそも、救われたいと思っていない。
不自由があっても抑圧されていても、だからといって“神”とよばれる存在に
すがって、解決される、事態が良くなるとは思っていない。
そもそも“創(つく)り主(ぬし)”がいる、とは、思っていない。
加えて、「そんなものを信じたって虚(むな)しい」と示す人々も見ている。
一方で、真面目に信じて、心底、自分のことを心配して言ってくれる人々がいる。
その愛情も感じている。
だからこそ、自分はそう信じたいとさえ思っていないけれど、それが本当だというならば、
「洗脳でもしておけばよかったのに」
という発言に至ったのだろう。
(ただし、こちらからすると、侮っているな、という感も否めない)
**********
そんなわけで、こう返答した(ような気がする)。
「いやいや、教育されたから、とか、洗脳されて、信じるものではない。
クリスチャンになる、ということは、それと同時に、
主が内在される
(神がその人のうちに住まわれる)ってことだ。洗脳でそうなるワケではない。
加えて、私たちは、命令されたことしかできないような旧型ロボットのように、創られたのではなくて、
選択の自由を与えられているんだ。
強制されて、信じるものでもない。
ただ、その自由をもって、
自分(神)の元に戻ってきてほしい、と願っておられるんだよ」
『私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。
あなたは いのちを 選びなさい。』
(旧約聖書・申命記30章19節)