さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

ペテロ第一 1:8-12

2013-06-30 23:52:43 | Sunday 写真&みことば
(写真は、世界遺産アンティグア・グアテマラ。ネットより拝借。
 グアテマラの首都グアテマラ・シティの西40kmにある富士山のような形をしたアグア火山など3つの山に囲まれた標高1520mの古都。
 16世紀初期に創建され、1773年の大地震による崩壊で、首都がグアテマラ・シティに移されるまで、中米では最も華やかな都市として栄えた。街は度重なる大地震で被害を被ったが、修復や再建によって甦っている。)




あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、

いま見てはいないけれども信じており、

ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。



これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。



この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、

熱心に尋ね、細かく調べました。



彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊(みたま)が、

キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、

だれを、また、どのような時をさして言われたかを調べたのです。



彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、

あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。

そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。

それは御使(みつか)いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。


     (新約聖書・ペテロ第一 1章8-12節)

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半年たちました

2013-06-30 23:26:56 | Thursday 生活
(写真は、ネットから拝借。リノベしたお住まいの居間)


 あっという間に、今年も、残り半分です。



 キャベツは、ここ数日間で、ゴミ袋4袋を片しましたが、まだまだ、4.5畳には物があるようです。
「旅するように生活する」。
トランク3つにまとめるのが、理想です(が、どうなるやら)



 (さらに削ぎ落としつつ、My手帳もふり返らなければ。・・・聖書、どこまで読んでたっけ、自分。・・・予定、どこまで進んでる・・・?



 ちなみに、枕も入れて、ゴミを投げに(=【南部弁】 捨てに) 行ったら、たまたま、そこにいた掃除のおばさんに、「これ、ダメかもよ」と言われましたが・・・枕って、粗大ごみでしたっけ?


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デドモと呼ばれたトマス(0)

2013-06-30 07:03:41 | Sunday 聖書

「見ずに信じる者は幸いです」 (by キリスト)



 「佐藤さ~~~~~ん」と、検査で名前が呼ばれた。「はい」と、年配の男性が立った。だが、彼は「齋藤さん」だった。



         ************


 ・・・から、つらつらと書いたものの、「導入」が長くなったため、ばっさり切ることにした。


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デドモと呼ばれたトマス(1) a

2013-06-30 06:29:03 | Sunday 聖書
『十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、
イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
 「あの方の手に釘(くぎ)の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、
この手をそのわき腹に入れてみなければ、
わたしは決して信じない」。


  (新約聖書・ヨハネの福音書20:24-25,新共同訳)』






 イエスの弟子の中に、『疑い深いトマス』というレッテルを貼られた人がいる。

 デドモ(英:Didymus,希:Δίδυμος「双子」)と呼ばれるトマス(アラム語でも「双子」)
  イエスの12弟子のひとり、この『双子』さんは、諸説あるもののなぜ『双子』と呼ばれたのかは不明。イエスの死後、インドに伝道したとも言われる人だ。

 私は、彼を好きではなかった。
 今回、ここを伝えるよう示され(別訳:インスピレーション)なかったら、しばしば「もったいない使われ方」をされる箇所だね、で終わっていただろう。

 だが、何と言うべきか。
 イエス自身が、「わたしは十字架につけられ、死者の間からよみがえる」と説明しても
十字架刑ののち、女たちが「先生が生き返った!」と伝えても弟子たちは、信じなかった
 つまり、疑い深い(信じられなかった)のは、トマスだけではないのだが、このトマスだけが、後世まで『疑い深いトマス』と、語り継げられている。(可哀そうに)

 その元となったのは、おそらく、冒頭の「目に見える証拠を!」と要求した場面だろう。


     ***************


 さて、ここで「イエスは復活したんです!」だけを取り上げるのはフェアではない。


     ***************



 では、もしも「イエスは復活しなかった」としたら?

 トマス以外の弟子たちは、イエスを処刑させたユダヤ人たちを恐れたあまりに、狂言を言ったのだろうか。
 それとも、集団錯覚にでも陥ったのだろうか。
 実は、別の人がイエスの代わりに十字架にかかったのだろうか。
 実は、イエスはもともと死んでいなかったのだろうか。

 その伝道のために、何百人、何千人の人が死んだ、というのは、それに対する説得性のある答えにはならない。なぜなら、うそ偽りのためでさえ、人は信じて死んでいき(ex.太平洋戦争)、信念や信仰ゆえに殉教するのは、ムスリムだろうと仏教徒だろうと共産主義の人であろうと、同様だからだ。それでは、『説明』にならない。


 もしも「イエスが復活しなかった」としたら?
 話は簡単だ。

 もし、イエスが十字架にもかからず、
 復活もしていなかったとしたら。

 聖書
-この当時は、書簡-自身が言っている。

「私たちは、全ての人の中で一番哀れな者」(コリント第一 15:19)
 である
、と。


       *****************


 では、逆に、もしも、本当に「イエスが復活した」としたら?

 イエスを見た者たちは、
「イエス様を見ました!」
「お墓に行ったら、かくかくしかじかで・・・!!」
「信じられないんですが、本当なんです!!」
「私が言っているコトを信じてください(>_<)!」
と言うしかないだろう。DNA鑑定? 指紋採取? そんなもの、2000年前にあるわけがない。

 だが、そんなことを言われた身になってほしい。
「そりゃ、先生が生き返ったらいいけれど・・・」
「そりゃあ、先生は、色んな奇跡をなすったけれども・・・、さすがに・・・」
「おい、嘘八百言うんじゃねえ。人が生き返るんなんざ、エリヤの時代じゃねえか。・・・あ、ラザロがいたっけ」
「いやいやいや。いやいやいや。」
「もうちっと、確証となる証拠、見せてくれません?」
となるだろう。

 見た者は見た、としか言いようがない。
 聞いた者は、信じられない、としか言いようがない。

 それぞれの中に、そのことをめぐって、フラストレーションがたまっていく。

前者「せっかく、いい話を伝えたのに・・・!」

後者「一体、何が面白くて、そんなバカげた話を言うんだ。いい加減にしてくれ」


 どんどん、溝は大きくなる。



         **************


 あのときは、結局、

 両者の間に、イエスご自身が現れることによって、解決した。



 だが、現代は?
 あの当時も今も、同じ問題が続いている。

 だが、今、一人ひとりに、イエスご自身が肉体を持って現れる、ということはない。




 あのとき、「見ずに信じる者は幸い」だと、イエスご自身がおっしゃったこと、
そのときの手がかりとなる聖書それ以外には、私たちには遺されていない。



 私たちの間には、大きな隔(へだ)たりがある。



 


 この大きな溝(みぞ)は、いったいどうすれば、解決するだろう。


(To be continued)

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デドモと呼ばれたトマス(1) b

2013-06-30 05:39:10 | Sunday 聖書
(絵:グェルチーノ(Guercino, 1591-1666, 伊)「聖トマスの懐疑」)


 『・・・イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
  それからトマスに言われた。
  「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
   手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
   信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」


  (新約聖書・ヨハネの福音書 20:26-27)







 というわけで、さつきの頃そこを示されてから1か月近く、うんうんと悩んでいた。

 ありがたいことに、イエスは、
「四の五の言わず、信じろ!」
「論理じゃない! 受け入れるんだ!!」
・・・などと、無茶を言う方ではない。

 冒頭にあるように、トマスに対して、確認することを勧めている。
 <それを信じることも。>


(あのときのように、イエス様が現れてくれたら、ありがたいんだが・・・)

 トマス然り。
 キリスト者を迫害していた、サウロ(のちのパウロ)然り。


 見た者は、見た、というほかなく、
 見ていない者は、信じられない、と言う。

 信じた者は、本当なんだ!、と言い、
 聞かされた者は、まさか、と言う。

 ある人々は信じ、ある人々は笑う(使徒28:24, 17:32)

 これに関しては、
 足して2で割る、ということは不可だ。


(とは言っても、私たち自身、肉体をもったイエス・キリストを見たわけではないんだよな)


 だが、信じている。
 これは、信じたいから、信じたわけではない。
 何かにすがりたかったから、信じたわけではない。

 信じざるをえなかったから、信じた。

(・・・どうして、『信じざるをえなかった』んだろう。
 私は、『いわゆるクリスチャンホーム育ち』ではなく、クリスチャン1世の方々のほうが近いのだが)


 場合によっては、『クリスチャン3世』と思われることも多いが、

 私の状況を知る人は、
「あの状況下で、よくまあ、集会(教会)に来たり、クリスチャンになったもんだ」と評する。


 言っておくが、

 周りに流されて、『信じる』ものではない。逆も然り。 (きっぱり)



(・・・ん~、結局・・・あの大きな隔たりが解決するためには・・・)


 祈りの中であれ、
 夢の中であれ、
 大自然の中であれ、
 何かのふとしたきっかけであれ、

 人は、個人的な 神との出会いが不可欠なんだ。

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デドモと呼ばれたトマス(2)

2013-06-30 04:51:31 | Sunday 聖書


『イエスは彼(トマス)に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。
 見ずに信じる者は幸いです。」』


        (新約聖書・ヨハネの福音書 20章29節)






 「で、トマスの話は、その後、どうなったの?」と、友人レタス(仮名)に聞かれたのは、もう、かれこれ1か月前だったような気がする。そのとき、こんな会話が繰り広げられた。


         **************


キャベツ「かくかくしかじか

レタス「それは、わかった。
    だが、そこで伝えたいのは、『見ずに信じる者は幸い』ってことなんじゃないの?

    そもそも、『見ずに信じる者は幸い』って、どういう意味なんだ?

    たとえば、逆に「見て、信じた者は幸いではない」のか?」


           **************


キャベツ「いやいや、見ても見なくても、信じたら幸いだよ」

レタス「そもそも、ここでいう『幸い』って、何?
    クリスチャン的には、「見たほうが幸い」(あの当時、直接イエス様に会いたかった)と思うんじゃないの?」

キャベツ「う~~~む・・・」

    (いや~、こっちは、「イエス様がそういうなら、そうなんだろ」、と、それだけで十分だったからなぁ。確かに、どういう意味で、イエス様は、こうおっしゃったんだろう? いやはや、こういう友人がいるのはありがたい。

キャベツ「…確かに、直接には理由は書いていないよね。山上の垂訓では、それを受け入れるかどうかは別として、『幸い』である理由を述べられているが…」



              ***********


 う~~ん、う~~~~ん、と悩んでいるキャベツに、レタスはヒントをくれた。

レタス「じゃ、『見ずに信じる者』に該当する者は誰?」

キャベツ「そりゃ、あの当時、イエスを直接見ずに信じた人たち…使徒行伝から今に至るクリスチャン…私たち、でしょう。 あと、旧約の聖徒たち、かな。 彼らは、『これからメシヤ(救い主、キリスト)が来る』ということを、見ずに信じていたわけだから。
     あれ、そういえば・・・」

 キャベツは、聖書をめくり始めた。
 (確か、そうだ、あそこに・・・)


           *************


 …というわけで、このあとは皆様の番です。

 (あなたは、そのみことばについて、どう示されましたか?)





(ちなみに、キャベツはこのとき、ペテロ第一,へブル11章,創世記15章6節,ローマ4章と示されましたが、はてさて。

 ここでは、その後は書かず、あえて、問題提起の部分まで、とさせて頂きます。)


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選択で迷うとき

2013-06-27 22:02:53 | 日々の雑感
 予定がブッキングするのはごく当たり前。その都度、人が、何かを選ぶのも当たり前。取り立てて言う程のことでもない。
 だが、どうして、こうすっきりしないのだろう?


 キャベツは、実は、夏休みの使い方で悩んでいた。
(こんなに気が晴れないのは、何故なんだ!?


 【ちょっと説明:前職場では、夏休みはなく、一年間のうち、どこかで、連続3日間休みが取れたら御の字だった。
   現職場では、一年間のうち、夏休みは、夏休み3日+週休2日+有休2日(+週休2日?)最大9日間もまとまった休みが取れる、唯一の、貴重な休暇である。
  むろん、大学病院では2週間取ったりしていると聞くし、フランスなど“バカンス”がある国々には笑われる程度だが…】


 -いつ (この貴重な) 夏休みを取るのか。
  → 考えて、祈った結果、ある日にした。(ここでも、選択に悩んだのは言わずもがな。)


 -その夏休みを、どう用いるか。

  → 優先順位? 軸? どれを選んでも○のような、△のような。
      (とはいえ、私自身、優先順位を考えるのは、まだまだ苦手課題だ

  → あちらを立てるとこちらが立たず。
       (懸念材料、考慮に入れつつ。)

  → 「希望」と「導き」とがブッキングするのか?    
      (それであるなら、もっとわかりやすい。だが、そういう類ではない。
       例えば、今回、取り立てて、ハワイに行きたいわけでも、他の人のように新婚旅行にキリマンジャロを登りたいわけでも、アメリカやタイその他に行きたいわけでも、ない。)

  → 祈った結果、
    「どれでも良い(悪くない)。あなたが好きなものを選びなさい」と言われたら、いったいどうしたらいいんだ?

      (神さまもお忙しいお方だが、人が「夏休み、どう用いましょう?」なんてことで聞くんじゃない!…というわけではなく。
       「どれにすべきか」と導きを願ったときに、「あなたの自由だ」と答えられると、…正直、悩みます


  → 悩んだ挙句、「やってられるか~~~~!!」とちゃぶ台返しをしたいような、全てを放り出したいような気分にもなるが、そうもいかず。
      (もちろん、「ちゃぶ台返し」は・・・ホント、「あ~~~~あ」っていう気分になるので、
       そんなマネはできないが。あの、壊れた茶碗、畳に流れる味噌汁、ちらばったほかほかのご飯の哀しさよ



  そうして、悶々と考えた挙句、また、様々「みた」挙句、どう選択すればぶれないのか、少し気づかされた(示された)ことがあった。

「死ぬとき、どれを選択していたら、悔(く)いがないか?」
という視点も持てば、いいのだと。(今更ながら)





 聖書は、「明日を誇るな」(cf. 箴言27:1,ヤコブ4:13-15)と言う。

 頭では、わかっている。

 理性では、知っている。

 だが、ほとんど常に、自分は、感覚的にはそれを忘れている


 仕事のおかげで、「“明日”があるわけではない」ということを、しばしば実感させられるが、

 まだ、「時間がある」という甘さが、心のどこかにしっかりと根付いている。 




 だが、もしも、「今日が最後だ」と知っていたら、

 もう少し、一日を大事にし、

 目の前の相手も大事にするだろう。

 神が与えてくださった、「時間」を、「自由」を、感謝しつつ、

 もう少し、賢く用いようとするだろう。



 ・・・さて、夏休み、どうしよっか?

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選択

2013-06-24 22:07:49 | 日々の雑感
 人生は、

 選択の連続だ。


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夢の中の ワイン騒動

2013-06-23 06:49:35 | Sunday 集会・生活
(こちらは、ただの夢です。実在の人物とは関係がありません)

 今朝、夢をみた。
 あるご夫婦が、クリスチャンとして皆と交わりを回復したいと思い、宴会を開いた。
そのご夫婦のお家で、それは開かれた。


         **************

 一生懸命、お料理を作ったり、(ごちゃごちゃしていた)お家を片づけたり、準備したんだな――――。
 ウーロン茶を飲みながら、キャベツはその奥さんの労苦を思いつつ、目の前の美味しそうな食べ物を見ていた。ビュッフェ形式だった。

 すると、小学校か中学校の女の子が、不満そうな哀しそうな顔をして、キャベツの前をつっきって、次の部屋に行き、ソファに座りこむと、ジュースを飲み始めた。
「どうしたんだい?」とキャベツが問うと、その子は、目線を前にしたまま、コップを口元に傾けながら、言った。
「ゆ・・・り・・・さんが、『お酒を出すなんて』って、怒ってた・・・」


         **************

 ああ、なるほど。
 世の中の人にとっては、「めでたいときは、お酒」が当たり前で、祝いの席で、ビールやワインがないことはとても失礼なことなのだが、
 英語圏のクリスチャン由来の文化をもつ、日本の真面目なクリスチャンにとっては、「酒が出るなんて、クリスチャンとしてふさわしくない」と忌み嫌われる行為だ。中には、「酒が出る席にいるというだけで、自分が穢れた気分になる」という方もいる。

 聖書には「酔ってはいけない」 1)と書かれているが、「飲んではいけない」とは書いていないのだが・・・いったいいつになったら、皆がそれを発見するのだろう。
 それを知っていて、なお「飲まない」ことを選択している人々 2)と、それさえ気づかずに「飲まない」ことを誇りとしている人々とがいるが、後者は、つまらんことで、人をつまずかせるの 3)が得意だ。これまた、無意識に。これまた、「自分が正義」を振りかざして。


 (「神のことばを、つけくわえても、減らしてもいけない」ということがわかっていたら、こんなこと、起こらないんだよ! 4)
 

 (せっかく、交わりたい、と思って会を開いたご夫婦にいちゃもん付ける前に、どうにか、なだめないと)

 キャベツは、人々が多く集まっている部屋に行き、そのご夫婦と、お酒のことで怒っているというゆりこさんとを探した。

 (ここの奥さんは、元々はやり手なんだが、「善意」でやったことにいちゃもんつけられると…加えて、「聖書に書かれていること」ならともかく、「書かれていないこと」を言われると…激怒して、また自らぶっ壊す人だから、これまた気の強いゆりこさんが、何か言い出す前に、穏便にしないと。)

 
         **************

 そうして、ミッション「ゆりこさんを探せ」は完了した。
 だが、「ゆりこさ~~~ん」と声をかけようとしたとき、そのキャベツの後ろから、主催した奥さんがゆりこさんに向かって、「あら~~~」と声をかけようとしていた。
 (あぶない
 「すみません、ちょっとお借りしますね」と、ゆりこさんの袖をひっぱって、別の部屋に行った。

 「どうしたんです?」
 「ちょっと、これ、見てよ!!」
ゆりこさんは、ある紙を見せた。それは、かわいらしく作られたお飲物表だった。

 ワイン(赤、白)
 ビール
 日本酒
 ソフトドリンク(ジュース、ウーロン茶)

 遠慮なく、好きなだけお飲みください。



 とあるリストを見て、キャベツは
私たちが飲めるものを、ちゃんと用意してくれているじゃないですか。ほら、一番下に」
と笑うと、目をつりあげたゆりこさんは、「何、言ってるの!!」と一喝した。

「そもそも、ワインやビールを出すなんて神経が信じられない!! クリスチャンとして、なっていないわ!!」

「世の中にいると、逆に『ワインやビールを出さないのは失礼だ』と思うものですから。
 実際、昔、イエス様だって、祝いの席で水をワインに変えたりしたじゃないですか。5)

 今回のこれらすべては、
 あのご夫婦としては、がんばって準備した現れだと思いますよ。

 それに、『飲んじゃいけない』のであれば、私たちが聖餐式に葡萄酒を飲むのは、ダメじゃないですか? 6)


「あれは、別よ」


「まあまあ(苦笑)
 そもそも、厳密には、『酔ってはいけない』わけで、『飲んではいけない』わけではないのですから、せっかくの祝いの席で、あれこれめくじら立てずに、過ごせないものですか・・・ね?」

「そうは言っても…。こっちは決して『目くじら』立てているわけではないのよ! でも、クリスチャンとして、・・・(大分、略)・・・」


「・・・お気持ちもわかりますが、・・・最初から、あれこれ求めず、先ずは『戻ってきたこと』を祝いませんか?
 もう、かれこれ何十年ぶりなんですから。

 もし万が一、他の人からすすめられても、
 『私は、お酒をたしなまないので…』と、やんわり、ウーロン茶にすれば良いでしょう?

 居丈高に、『私はクリスチャンだから、飲まない!』『お酒を飲むなんて!』と、周りを卑下するようなことを言うのは、あなたの気持ちは晴れるでしょうが、クリスチャンとして賢くない行動にならないでしょうか・・・?



        *******************


 ・・・と、そこまでで、キャベツは目が覚めた。
(なんでまた、こんな夢、見たかなぁ・・・朝から、どっと疲れたよ)


 
 (゜_゜ ・・・へブル12:13・・・?



【注】
1)エペソ5:18

2)ローマ14:17-21,エペソ5:18-19

3)⇔ローマ14:13-14

4)申命記4:2,黙示録11:18-19

5)ヨハネの福音書2:1-11 カナの婚礼の場面。

6)マタイの福音書26:26-29 聖餐式(パン裂き)での、パンとぶどう酒。これらを持って、主イエス・キリストの十字架の贖(あがな)いを覚える。これに関して、カトリックでは、祈りによってそれがキリストの体に変化(聖化)すると考えていると聞くが、プロテスタントの多くは、パンとぶどう酒を「象徴」として、考える。

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ファイナルベンサー と 潮騒

2013-06-22 19:45:12 | Thursday 生活
(ネタバレ注意)

 今日は、「あまちゃん」を見逃した。

 キャベツは職場の休憩中に、見ていることが多いが、それにしても、周りの老若男女、あまちゃんを見ている率が高い。
一緒に見ながら、感情移入して涙を流す人もいれば、
「今週末、まとめてみるから、まだ言わないで!」というDrもいれば、
「私は週末に見るのに、旦那が見るっていうので結局見ちゃって・・・昨日までの話は大丈夫ですよ」というDrもいる。
(加えて夜、買い物に出かけると、どこかのマンションから、あまちゃんソングが流れてくる。)

 とりあえず、先々週の話だから、大丈夫なハズですが・・・


      ************

<ちょっとした小ネタ>

 先々週のある日、あまちゃん内で「潮騒のメモリー」という(架空の)映画の話の説明中、キャベツは、

「それ、三島由紀夫の『潮騒』に似た話だな・・・」

と思ったのデシタ。

 三島由紀夫の『潮騒』。
 何を隠そう小学校3年の頃。教室のうしろにあったソレを読んで、顔を真っ赤にして、クラスメートに「なんか、Hい本がある! あんなの読んじゃだめだ!!」と言った過去があるキャベツの脳裏には、即座にそれが出てきたのデシタ。
(同様に、紀行本だと思って開いた、村上春樹「ノルウェイの森」でも、目から火花が・・・。なんて純情な青春時代だったんだろう

 すると、それを代弁したかのように、琥珀(こはく)磨きの勉(べん)さんが、

「おめえら、三島由紀夫の潮騒とごっちゃにしてね~か?」

 と言ってくれたのデシタ。キャベツは、勉(べん)さんに、「よくぞ言った、ファイナルベンサー!!」と好感を持ちました。


 その次の日、勉さんは、2009年の北鉄において最初にスマートフォンを持ったため、「すまーと勉(べん)」と呼ばれるようになったのデシタ。

(かくして、キャベツの中で、勉さんはぐぐぐと株が上がりました。)


         *****************


 挙げるとキリがないけれど、さりげなく、こういう小ネタがちりばめられて、どの世代も皆違和感なく、すっと感情移入できる脚本を創っているクドカンさん、ブラボー―――!! と心底思ふ。


         *****************


 ちなみに、来週から「東京編」になるようだけど、最初の映像はあの三陸の海のままにしてけろ。

 (あれのおかげで、「普通の海がみたい!!」と、遠出をしなくてすむのです。

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