(写真は、未だ行ったことのない、京都ようじやの抹茶モカ)
(本多静六さん 1)の某著書から抜粋)
どうにかして幸福になりたい、幸福に生きたいと多くの人が望んでいる。
しかし、いったい幸福とはどんなものであるかということについては、単に仕合せなことだ、
運がよいことだくらいで簡単に片づけ、わかったことにしている。もちろんそれも幸福の
一面には違いないが、決して全部を言いつくしてはいない。
われわれはここに改めて幸福について検討を加えなければならない。
人間生活を、より幸福にするためには、幸福の意味をはっきりさせておく必要があるからである。・・・(略)
*************
人間の欲望にはいろいろな種類と程度があり、かつ人と場合によって一様でない。
「いつも三月花の頃、
女房十八わしゃ二十、
死なぬ子三人皆孝行、
使って減らぬ金(かね)万両、
死んでも命のあるように」
という具合で、人間の欲望にはきりがない。人によってはむやみに金持ちになりたがる者があり、
ごくごく欲の深い人は―とくに強欲の高利貸しなどになると、打ち首にされた時、懐(ふところ)から
落ちかけた財布を首のない手でつかんだという話があるくらい金を欲しがる。
そうかと思うと、金の不寝番に苦しんで、しきりに貧乏の心安さを羨(うらや)む者もある。
・・・(略)・・・
また平素病弱な人は何よりも身体の丈夫なことを望み、子のない人は何よりも子宝を願う
というように、
人は現在自分に満たされているもの、満たされた境遇には満足せず
(すなわち幸福を感じないで)、
かえって自分の持たないもの、持たない境遇を欲しがる傾向がある。・・・(略)・・・
さらにまた、
同じことを
同じ人が、
先には幸福だと感謝したのに、後には不幸だと託(かこ)つ
ようなこともある。
あの大空襲によって、焼死の災を免れて何より命の助かったことを幸福に思い、感謝した人が
その後再起できず、いっそあの時ひと思いに焼け死んだ方がましだったと、歎(なげ)き悲しむことも
少なくない。これなど同じ事態をはじめには幸福と感じ、後には不幸と感じた事例である。
かつて京都円山の大火事の際に、多くの人々が泣き叫びながら家財道具を担いで逃げまどうのを、
四条の橋の下を定宿(じょうやど)とする親子連れの乞食(こじき)が眺めていたが、やがて乞食の子が、
「ちゃんや、俺たちはこういう時にも、安心して寝ていられるから仕合せだね」
というと、親乞食は、この時ばかりは得意そうに、「それもみんな親のおかげさ」と答えたという
笑い話がある。
また「番町で目明き盲人に道をきき」とうたわれた塙保己一(はなわ ほきいち)が
弟子たちに講義中、フッと灯火が掻き消えたのに狼狽する弟子たちをしりめに、
「さてさて目明きは不自由なものじゃ」
といったのも有名な話である。
実際、時と場合と気の持ちようしだいでは、金持ちより乞食の方が、目明きより盲人の方が
安楽で幸福だと感じられることもないではない。しかし、ごく少数の人を除いた一般人の欲望は、
まず世間並みに生活することにおかれているから、一般的普通の幸福とは世間並みの生活をしつつ、
その上に欲望の満たされる状態であるというべきである。
*****************
人が何と思おうと、どう見ようと、それは自分の幸福には無関係で、ただただ
自分で自分の心に快感を覚える状態が幸福なのだ。
ところが、
多くの場合、自分の心の持ちよう一つで同じことが幸福にもなり、
不幸にもなるのであるから、われわれはまずもってあらゆる場合を幸福に感じるよう、
精神上の修養が肝要である。・・・(略)・・・
誰かの歌に
「破れたる 衣(ころも)を着ても 足ることを 知ればつづれの 錦(にしき)なりけり」
というのがあったが、まことにそのとおり、精神的満足は物質の不足を補って余りあるのである。
・・・(略)・・・
【注】
1)本多静六:1866年(慶応2年)-1952年(昭和27年)。埼玉生まれ。
日本初の林学博士、造園家。日比谷公園をはじめ多くの国立公園の設置に携わる。
あるとき、まとまった額の寄付を行ったところ、
「こんな給料で、そんな多額の寄付が出来るのはおかしい。」
と嫌疑をかけられたという(それで家計簿を公開した、という話もあったように記憶しているが、少々心もとない)。
東大教授退官後、匿名でほぼ全額
を寄付。「私の財産告白」という著書は有名らしい(未読)。
【関連記事】
・
「幸福とは 壱」<定義>
・
「幸福 弐」
・
「パレアナ」
・<番外編>
「謝謝」