・・・「無からの創造」に対して、私はこのことを「有の発見」と呼んでいます。
あるはずのよりよい表現を探し出す、それがコピーライティングでありデザインの仕事だと思っています。
コピー表現に限りません。人に役立つような、人に面白いと思ってもらえるような
優れた実用文は、書き手がひねり出して書くものではなく、見つけ出すものだと思います。・・・
・・・読んでもらいたい話が見つかったら、こんどはそれを表現する言葉探し、文章探しです。
ひょっとしたら、あるいは多分、言葉探し、文章探しは
簡単ではないかもしれません。あなたは天才ではないでしょうから。
・・・でも新しい言葉を作り出そうというのではありません。
すでにあなたのまわりにある言葉の中から見つけ出すだけの作業です。・・・
(鈴木康之著;名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方,日経ビジネス文庫,p24-27)
あるはずのよりよい表現を探し出す、それがコピーライティングでありデザインの仕事だと思っています。
コピー表現に限りません。人に役立つような、人に面白いと思ってもらえるような
優れた実用文は、書き手がひねり出して書くものではなく、見つけ出すものだと思います。・・・
・・・読んでもらいたい話が見つかったら、こんどはそれを表現する言葉探し、文章探しです。
ひょっとしたら、あるいは多分、言葉探し、文章探しは
簡単ではないかもしれません。あなたは天才ではないでしょうから。
・・・でも新しい言葉を作り出そうというのではありません。
すでにあなたのまわりにある言葉の中から見つけ出すだけの作業です。・・・
(鈴木康之著;名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方,日経ビジネス文庫,p24-27)
黙示録1-3章にある7つの教会※1については、いくつか言われている。
・「時代区分」(ディスペンセ―ション)
・同じ時期であっても、様々な状態の「教会(集会)」がある 等。
その7つ目の教会が「ラオデキヤ」。白い衣、目薬、金、時代・・・etc前半はよく学ばれているが、この前、池袋でふと思ったのは、そのあとの部分だった。
※1私たちの群れでは、大抵「集会」と使われるが、ここでは表記に従い、「教会」とする。
*************
ラオデキヤの「不思議」― 主(しゅ)が不在
― 「教会」と呼ばれている
主が不在でも、それは「教会」足りえるのか?
⇔「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)
「教会」とは何ぞや?
・広義では、建物をも指すが、元々は、その集まり(エクレシヤ)。
-鯛焼きは、鯛が無くても“鯛焼き”
-メロンパンは、メロンがなくても、“メロンパン”
→“教会”も?? (反語)
*************
とても、不思議だ。
「教会」の定義
- ×建物(であるならば、中途半端はやめてけろ。
大学の教養の音楽の講義で、「自分たちのお古を、神や上の人に献上するのはOKだが、逆に、神のお古を使うのは×って、不思議だよな~」なんて話もあったことを思いだす。
だが、建物自体は、本来、何に使用してもOK(ex.教室)
もしも、神聖視するならば、それに見合った形、にしようよ。
また、神聖視しないにしても、わざわざ醜く / 使いにくく する必要はない。)
- ○ 人 「2,3人」「主の御名のもとに集う」
ということにすると、、、
では、なぜ、ラオデキヤでは「主が不在」だったのか。
・「2,3人」=信者 → 「主の御名」によって、ではなく、他の何かが中心となって集っている?
(ex.高慢、誰かを中心とする派閥 etc)
↓
確かに、ラオデキヤは「満たされ」ていた。cf.コリントの教会
⇔だが、人々はそんなつもりはない
主もまた、それを「教会」と呼んでいる
もし、その状態がマズイと思う(感じる)ならば、どうすれば良いか?
↑「悔い改める」・・・ということは、その状況下であるならば、人々は皆、“ことば”としては知っている。
もし、その状態が続くならば、それはどうなってしまうのか?
・「時代区分」(ディスペンセ―ション)
・同じ時期であっても、様々な状態の「教会(集会)」がある 等。
その7つ目の教会が「ラオデキヤ」。白い衣、目薬、金、時代・・・etc前半はよく学ばれているが、この前、池袋でふと思ったのは、そのあとの部分だった。
※1私たちの群れでは、大抵「集会」と使われるが、ここでは表記に従い、「教会」とする。
*************
ラオデキヤの「不思議」― 主(しゅ)が不在
― 「教会」と呼ばれている
主が不在でも、それは「教会」足りえるのか?
⇔「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)
「教会」とは何ぞや?
・広義では、建物をも指すが、元々は、その集まり(エクレシヤ)。
-鯛焼きは、鯛が無くても“鯛焼き”
-メロンパンは、メロンがなくても、“メロンパン”
→“教会”も?? (反語)
*************
とても、不思議だ。
「教会」の定義
- ×建物(であるならば、中途半端はやめてけろ。
大学の教養の音楽の講義で、「自分たちのお古を、神や上の人に献上するのはOKだが、逆に、神のお古を使うのは×って、不思議だよな~」なんて話もあったことを思いだす。
だが、建物自体は、本来、何に使用してもOK(ex.教室)
もしも、神聖視するならば、それに見合った形、にしようよ。
また、神聖視しないにしても、わざわざ醜く / 使いにくく する必要はない。)
- ○ 人 「2,3人」「主の御名のもとに集う」
ということにすると、、、
では、なぜ、ラオデキヤでは「主が不在」だったのか。
・「2,3人」=信者 → 「主の御名」によって、ではなく、他の何かが中心となって集っている?
(ex.高慢、誰かを中心とする派閥 etc)
↓
確かに、ラオデキヤは「満たされ」ていた。cf.コリントの教会
⇔だが、人々はそんなつもりはない
主もまた、それを「教会」と呼んでいる
もし、その状態がマズイと思う(感じる)ならば、どうすれば良いか?
↑「悔い改める」・・・ということは、その状況下であるならば、人々は皆、“ことば”としては知っている。
もし、その状態が続くならば、それはどうなってしまうのか?
また、ラオデキヤにある教会の御使(みつか)いに書き送れ。
『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行いを知っている。
あなたは、冷たくもなく、熱くもない。
わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、
わたしの口からあなたを吐き出そう。
************
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏(とぼ)しいものは何もないと言って、
実は自分がみじめで、哀(あわ)れで、貧しくて、盲目で、裸(はだか)の者であることを
知らない。
************
わたしはあなたに忠告する。
豊かな者となるために、火で精錬された金(きん)をわたしから買いなさい。
また、あなたの裸の恥(はじ)を現さないために着る白い衣(ころも)を買いなさい。
また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
************
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。
だから、熱心になって、悔い改めなさい。
************
『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行いを知っている。
あなたは、冷たくもなく、熱くもない。
わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、
わたしの口からあなたを吐き出そう。
************
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏(とぼ)しいものは何もないと言って、
実は自分がみじめで、哀(あわ)れで、貧しくて、盲目で、裸(はだか)の者であることを
知らない。
************
わたしはあなたに忠告する。
豊かな者となるために、火で精錬された金(きん)をわたしから買いなさい。
また、あなたの裸の恥(はじ)を現さないために着る白い衣(ころも)を買いなさい。
また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
************
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。
だから、熱心になって、悔い改めなさい。
************
見よ。
わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
************
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座につかせよう。
それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座(みざ)に着いたのと同じである。
************
耳のある者は、御霊(みたま=聖霊)が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
(新約聖書・ヨハネの黙示録3章14-22節)
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座につかせよう。
それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座(みざ)に着いたのと同じである。
************
耳のある者は、御霊(みたま=聖霊)が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
(新約聖書・ヨハネの黙示録3章14-22節)
「神が 多くの子たちを栄光に導くのに、
彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、
万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、
ふさわしいことであった」
(新約聖書・へブル 2章10節)
彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、
万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、
ふさわしいことであった」
(新約聖書・へブル 2章10節)
誰か、これを解き明かしてくれないだろうか。
なぜ、「万物の存在の目的」である方として「ふさわしく」、
なぜ、「万物の存在の原因」である方として「ふさわしい」のか。
そうすれば
私は、私の説明責任(ローマ1:14、ペテロ第一 3:15)を一つ、果たせそうなのだが!
…戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。
これらは、必ず起こることです。
しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対(てきたい)して立ち上がり、
方々にききんと地震が起こります。
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初(はじ)めなのです。
(新約聖書・マタイの福音書 24章6-8節)
不思議なコト。
池袋では、東武が西で、西武が東。
メロンパンにはメロンがなく、
たこ焼きにはたこがなく、
満たされた!ハズの「ラオデキヤ(教会)」では、キリストが外からノックする。
池袋では、東武が西で、西武が東。
メロンパンにはメロンがなく、
たこ焼きにはたこがなく、
(←ここはもちろん突っ込んで…ネ)
満たされた!ハズの「ラオデキヤ(教会)」では、キリストが外からノックする。
如月(きさらぎ)の頃、映画版「レ・ミゼラブル」を観た。
制限時間内に、ぎゅぎゅっと詰め込みました!!という感。映画版ミュージカル。
ミュージカルを見ていれば、映画をより味わい深く、
原作を読んでいれば、ミュージカルの内容がより解る、カモ。
映画版レミゼ所感の続き。
映画版レミゼを観たある若人の感想を先に聞いたとき、原作を知っていたら決してありえないと思える感想(曲解)だったので、つい、原作を勧めたくなった。そもそもこれは、少なくとも、2時間半で描くには、かなりキビシイ内容である(そういう意味では、とってもがんばっていた映画だったと思う)。
ミュージカルでの3時間半でさえ、「少ない!」(描くのがキツイ!!)と感じたほどだったことを思い起こす。
*******************
昨年までのミュージカル(1985年ロンドンオリジナル版。昨年で終了)では、エポニーヌに焦点が当たっていたが、映画版では、「全体にまんべんなく」(内容、人物ともに)という感じだった。
<特に良かったと感じた方々>
ファンティーヌ役のアン・ハサウェイ、圧巻。
コゼットは、「貧困の中の子」である幼少期はともかく、大人になったらマスコット的な影の薄い存在なのだが、赤ずきんちゃん(アマンダ・セイフライド)は、見事に存在感を発揮していた。特に最後。すごい。
****************
残念だったのが、ジャベールと、壁の「一つ目」だった。
ラッセル・クローの歌声が・・・ということより何より、ジャベールの描き方に違和感を抱いた。
「ジャベールはあんなヤツじゃなかったはずだ・・・『人の権威』に頭(こうべ)をたれ、『正義』を振りかざして裁いている『だけ』なのに、それを『神の愛』だ何だ、と言うのが変だ!
ジャベールは、原作ではもっと、まっすぐだったはずだ。ジャベールがそんな欺瞞(ぎまん)に満ちた発言をするなんて、おかしくないか?」
(1切れのパンを盗んだことが契機で19年牢獄にいたジャン・バルジャンへの対応、そして歌…ただ単に、『人の権力・権威・法』を絶対視し『正義』を振りかざしているだけなのに、『神の愛を受け入れろ~♪』などと歌で言うとは、非常に気持ちが悪い。
まっすぐであったからこそ、自分のものさしでは測れない『赦し』や『愛情』に遭って、葛藤を覚え、ああするに至ったハズなのに…)
だが、同じく映画を観たある友人は、こう切り返してきた。
「いや、あれはあれで、正解なんじゃないかな。
実際、そういう人間って、けっこういるじゃない?」
ぎゃふん。
***************
・・・とまあ、色々な感想が噴出したわけだが、次、もしどちらかを観るのなら、今度はまた、舞台を観たい。
(もちろん、映画は映画で、雨の演出など素晴らしいが)
今年は、山口祐一郎さん(ジャン・バルジャン役)がのどを痛めたため降板とのことなので、今年からの新しいヴァージョンはまたいつかの機会に、と思うが・・・あのとき、
歌が頭の中でリフレインするほど、震えた。
「法律と風習があるために、社会的処罰が存在し、
文明のただなかに人工的な地獄をつくりだし、神意による宿命を人間の不運でもつれさせているかぎり、
また貧乏のための男の落伍(らくご)、飢(う)えのための女の堕落、暗黒のための子どもの衰弱という、
現世紀の三つの問題が解決されない限り、
またあちこちで社会的窒息が起こりそうであるかぎり、
言葉をかえてもっと広い見地に立って言えば、地上に無知と悲惨がある以上、
本書のような性質の本も無益ではあるまい。」
文明のただなかに人工的な地獄をつくりだし、神意による宿命を人間の不運でもつれさせているかぎり、
また貧乏のための男の落伍(らくご)、飢(う)えのための女の堕落、暗黒のための子どもの衰弱という、
現世紀の三つの問題が解決されない限り、
またあちこちで社会的窒息が起こりそうであるかぎり、
言葉をかえてもっと広い見地に立って言えば、地上に無知と悲惨がある以上、
本書のような性質の本も無益ではあるまい。」
1862年1月1日 オートヴィル・ハウスにて