(絵:ドラクロワの「キリストの磔刑」、1835年)
「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために 1)、「わたしは渇(かわ)く。」と言われた。
そこには酸(す)いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。
そこで彼ら(=兵士たち)は、酸いぶどう酒を含んだ海綿(かいめん)をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。
そして、頭をたれて、霊(れい)をお渡しになった。」
(新約聖書・ヨハネの福音書 19章28-30節)
ー約束したこともあり、簡単に記す。
つたないが、何かしらの参考になりますように。-
ある日のこと。
十字架上で、イエスが発したことばはいくつかあるが、その中に
「私は渇く」
ということばがある。(上記参照)
ご存知のとおり、「渇(かわ)く」ということには、二つある。
一つは、肉体的な渇き。
たとえば、ランナーが走っているときに水分補給をしたり、日常で「のどが渇いた」というときのことだ。
もう一つは、霊的な、精神的な渇き。
人は、肉体的にだけではなく、心の渇きを感じることがある。
・・・昨年、自殺者が3万人強(3万2753人(暫定値))と聞く。
つまり、一日約90人、
今、こうして話がされている間(=1時間)にも、日本の中だけで、約4人もの人々が、自ら命を絶(た)っていることになる。
そこには、さまざまな背景や事情があるわけだが、人は、渇きを覚え、また、絶望して、自らの命を絶つことを選んだ。
イエスが「わたしは渇く」と十字架で言われたとき、このどちらの意味もあったことを知る。そのとき、肉体的にも渇き、
霊的にも、父なる神と絶たれていたから、だ。 2)
さて、少し戻ってヨハネの4章を開いていただきたい。
そこには、サマリヤのスカルという町の女性が登場する。
(町の他の人々が来なさそうな、暑~い真っ昼間に、わざわざ井戸に水を汲みに来て、イエス・キリストと話をする場面。)
話の切り口は、イエスからの「水を飲ませてください」ということばだったが、当時、ユダヤ人はサマリヤ人と口も聞かないような間柄だったことを考えると、女性が驚くのも無理はないことだった。
だが、あとを読めばわかるとおり、たった一人のこの女性のために、イエス・キリストは、声をかけられた。
(かなり割愛するが)夫を5人もち、
今6番目の男性と同棲している、この女性のために。 3)
渇きを覚えていたであろう、この女性のために。
こののち、イエス・キリストと話をしたこの女性は、キリストによって変えられたのだ、とわかる。
というのも、この女性は大切な水がめをそこに置いたまま、町に行き、今まで避けていた人々に話したからだ。
そして、その町の人々が、その女性のことばでイエスを信じたほどだったからだ。
・・・キリストはさまざまな奇跡をなし、その間に、この女性のことがある。
ここで、キリストは、水をぶどう酒に変えたり、5つのパンで5千人以上もの人々の飢えを満たしたり、・・・そういった華やかな奇跡をなしたわけではない。
だが、この女性はこころを変えられた。
こころを変える、というのは、人にとって一番難しいことではないだろうか?
(そして、信じる、ということは。)
その奇跡を、わたしたちは味わっている。・・・
また、-開かなくてもいいが-ルカ伝16章の「金持ちとラザロ」の話の中で、金持ちがハデスで苦しみ、
生きている間、全身おできの貧乏人だったラザロ、
金持ちの門のところで寝ていたあのラザロの指先からでいいから、
自分の舌を水で浸してほしい、と
願う姿がある。
(ちなみに、貧乏人のラザロはアブラハムのふところ(=天国)にいた。)
私達も、こうなるはずだったのだ。
だが、私達の代わりに、十字架上で、イエス・キリストは、「渇く」ということをも味わわれた。
本来、そういうことを味わわなくて良かった方が、私たちの代わりとなってくださったのだ。1)
そして、それを信じるだけで、良し(=義(ぎ))とされるように、天国に入れるように、してくださった。
どうか、それを、無駄にされませんように・・・
(このあたりで終わりとします。
by 要約等を訓練せなあかんと思うキャベツ )
【一言メモ】
1)このキリストの十字架刑(=死刑)については、
旧約聖書の預言のとおり、私たちの罪の贖(あがな)いのためであった、
と新約聖書は示していることを記す。詳細は割愛。
ちなみに、西暦(AD)は、ラテン語の“Anno Domini(主の年)”という意味であり、
西暦○年=キリストが誕生してから○年、という意味である。
(とはいっても、聖書に記述されている大規模人口調査があった年などから、実際には、キリストの誕生は紀元前4年頃とも言われている)
2)これについては、説明が必要だろうと思う。
だが、これを書くと、また長くなってしまう・・・。
というわけで、これまた割愛させていただく。すみません。
3)「心の渇き」を満たそうと、人は何を求めるだろうか。
生きがい、趣味、仕事、恋愛・・・さまざまなものに求めるかもしれない。
今、一回離婚していれば「バツ1」、2回離婚していたら「バツ2」という。
今日(こんにち)でも「バツ5」はかなり珍しいが、2000年前の当時、
-そもそも、姦淫していたら本来、石打ち刑(=死刑)也。今のアラブのある地域で、今もそうであるように-
「バツ5」以上の、この女性に対して、町の人々は白い目を向けていただろうと思われる。
人目を避け、人がこないような時間帯に、水を汲みに来ていたこの女性は、何を求めて幾度となく、そうしてきていたのだろうか。
「今度こそは・・・」と考え、恋愛で、結婚で、心の渇きを満たそうとしていたのではないだろうか・・・、
というのは、また別の話。
ただ、ここにおいて、キリストがこうおっしゃっていたのは有名也。
「すべてこの水をのむ者は、また渇かん。
されど我があたふる水を飲む者は、永遠(とこしへ)に渇くことなし。
わがあたふる水は彼の中(うち)にて泉となり、
永遠(とこしへ)の生命(いのち)の水 湧きいづべし」(4章13-14節)
「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために 1)、「わたしは渇(かわ)く。」と言われた。
そこには酸(す)いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。
そこで彼ら(=兵士たち)は、酸いぶどう酒を含んだ海綿(かいめん)をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。
そして、頭をたれて、霊(れい)をお渡しになった。」
(新約聖書・ヨハネの福音書 19章28-30節)
ー約束したこともあり、簡単に記す。
つたないが、何かしらの参考になりますように。-
ある日のこと。
十字架上で、イエスが発したことばはいくつかあるが、その中に
「私は渇く」
ということばがある。(上記参照)
ご存知のとおり、「渇(かわ)く」ということには、二つある。
一つは、肉体的な渇き。
たとえば、ランナーが走っているときに水分補給をしたり、日常で「のどが渇いた」というときのことだ。
もう一つは、霊的な、精神的な渇き。
人は、肉体的にだけではなく、心の渇きを感じることがある。
・・・昨年、自殺者が3万人強(3万2753人(暫定値))と聞く。
つまり、一日約90人、
今、こうして話がされている間(=1時間)にも、日本の中だけで、約4人もの人々が、自ら命を絶(た)っていることになる。
そこには、さまざまな背景や事情があるわけだが、人は、渇きを覚え、また、絶望して、自らの命を絶つことを選んだ。
イエスが「わたしは渇く」と十字架で言われたとき、このどちらの意味もあったことを知る。そのとき、肉体的にも渇き、
霊的にも、父なる神と絶たれていたから、だ。 2)
さて、少し戻ってヨハネの4章を開いていただきたい。
そこには、サマリヤのスカルという町の女性が登場する。
(町の他の人々が来なさそうな、暑~い真っ昼間に、わざわざ井戸に水を汲みに来て、イエス・キリストと話をする場面。)
話の切り口は、イエスからの「水を飲ませてください」ということばだったが、当時、ユダヤ人はサマリヤ人と口も聞かないような間柄だったことを考えると、女性が驚くのも無理はないことだった。
だが、あとを読めばわかるとおり、たった一人のこの女性のために、イエス・キリストは、声をかけられた。
(かなり割愛するが)夫を5人もち、
今6番目の男性と同棲している、この女性のために。 3)
渇きを覚えていたであろう、この女性のために。
こののち、イエス・キリストと話をしたこの女性は、キリストによって変えられたのだ、とわかる。
というのも、この女性は大切な水がめをそこに置いたまま、町に行き、今まで避けていた人々に話したからだ。
そして、その町の人々が、その女性のことばでイエスを信じたほどだったからだ。
・・・キリストはさまざまな奇跡をなし、その間に、この女性のことがある。
ここで、キリストは、水をぶどう酒に変えたり、5つのパンで5千人以上もの人々の飢えを満たしたり、・・・そういった華やかな奇跡をなしたわけではない。
だが、この女性はこころを変えられた。
こころを変える、というのは、人にとって一番難しいことではないだろうか?
(そして、信じる、ということは。)
その奇跡を、わたしたちは味わっている。・・・
また、-開かなくてもいいが-ルカ伝16章の「金持ちとラザロ」の話の中で、金持ちがハデスで苦しみ、
生きている間、全身おできの貧乏人だったラザロ、
金持ちの門のところで寝ていたあのラザロの指先からでいいから、
自分の舌を水で浸してほしい、と
願う姿がある。
(ちなみに、貧乏人のラザロはアブラハムのふところ(=天国)にいた。)
私達も、こうなるはずだったのだ。
だが、私達の代わりに、十字架上で、イエス・キリストは、「渇く」ということをも味わわれた。
本来、そういうことを味わわなくて良かった方が、私たちの代わりとなってくださったのだ。1)
そして、それを信じるだけで、良し(=義(ぎ))とされるように、天国に入れるように、してくださった。
どうか、それを、無駄にされませんように・・・
(このあたりで終わりとします。
by 要約等を訓練せなあかんと思うキャベツ )
【一言メモ】
1)このキリストの十字架刑(=死刑)については、
旧約聖書の預言のとおり、私たちの罪の贖(あがな)いのためであった、
と新約聖書は示していることを記す。詳細は割愛。
ちなみに、西暦(AD)は、ラテン語の“Anno Domini(主の年)”という意味であり、
西暦○年=キリストが誕生してから○年、という意味である。
(とはいっても、聖書に記述されている大規模人口調査があった年などから、実際には、キリストの誕生は紀元前4年頃とも言われている)
2)これについては、説明が必要だろうと思う。
だが、これを書くと、また長くなってしまう・・・。
というわけで、これまた割愛させていただく。すみません。
3)「心の渇き」を満たそうと、人は何を求めるだろうか。
生きがい、趣味、仕事、恋愛・・・さまざまなものに求めるかもしれない。
今、一回離婚していれば「バツ1」、2回離婚していたら「バツ2」という。
今日(こんにち)でも「バツ5」はかなり珍しいが、2000年前の当時、
-そもそも、姦淫していたら本来、石打ち刑(=死刑)也。今のアラブのある地域で、今もそうであるように-
「バツ5」以上の、この女性に対して、町の人々は白い目を向けていただろうと思われる。
人目を避け、人がこないような時間帯に、水を汲みに来ていたこの女性は、何を求めて幾度となく、そうしてきていたのだろうか。
「今度こそは・・・」と考え、恋愛で、結婚で、心の渇きを満たそうとしていたのではないだろうか・・・、
というのは、また別の話。
ただ、ここにおいて、キリストがこうおっしゃっていたのは有名也。
「すべてこの水をのむ者は、また渇かん。
されど我があたふる水を飲む者は、永遠(とこしへ)に渇くことなし。
わがあたふる水は彼の中(うち)にて泉となり、
永遠(とこしへ)の生命(いのち)の水 湧きいづべし」(4章13-14節)