さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

教育と洗脳 (1)

2016-01-21 05:14:54 | Sunday 集会・生活

―『眠った人々のことについては、兄弟たち、

あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。

 あなたがたが他の望みのない人々のように 悲しみに沈むことのないためです。』


(新約聖書・テサロニケ第一 4:13)






 ある人が亡くなった。





 何度となく経験していても、

 死は 悲しみを運んでくる。

 しばしば、ぽっかりとした喪失感まで。





 だが、クリスチャンならば、一つ希望がある。

 また、天で会える、と。




 それゆえ、賢いことかどうかはわからないが、

 正直な願いを、

 吐露(とろ)する。

「せめて、死ぬ前にはクリスチャンになれよ」





 いや、それは、正直ではない。

 もっと正直に言うならば、

 ―早く、だ。




 すると、同居人は言った。

「無理だよ。信じてないもん」

 私は言った。

「当たり前だ。

 信じないで、クリスチャンになるもんじゃない」

「おばあちゃんも、(同居人の兄の一人)も、『信じろ』っていうけど、

 信じてないのに、どうやって、なれっていうのよ。

 それなら、

 子どもの頃から、そう教えておけばよかったじゃない!」


(ちょっと複雑になった:オレは、K達をある種そう育てたが、この子たちには関与できなかったんだよなぁ…う~む…)






 その後、「ごはん、うま~~~い!」「××、おいし~い!!」などと夕食を食べている最中、

 同居人は、急に尋ねてきた。



「ねえ。教育と洗脳の違いって、なに?」


 
(続く)

(同居人の許可取得済み)

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教育と洗脳 (2)

2016-01-21 03:14:56 | Sunday 集会・生活
「わたしはな、世代の差というものはどうしようもないと思うと同時に、

環境というものは、教育というものは、

実に恐ろしいものだと思った。

どんな思想の人間も環境と教育次第でつくれるんだ。


―かつての特殊軍兵士達が 国のために死んでいったようにな」』

(ジャスミン・クーア,「スカーレット・ウィザード」)




(続き)

(許可取得済み)




 ― 洗脳と教育の違い、かぁ。


「なかなか、イイ質問だね」

 ちょっと失礼するよ、と、珈琲を淹れに行きつつ、私は、おもしろい質問だが、さて、どういうべきか、と思い巡らした。


(教育学畑の人がいたら、食いつくだろうなぁ・・・)

(絶対、そんな中途半端な、とか、十分に言えていない、と突っ込まれそうだが…)

(この前、貸した本も消化できてないんじゃないか、と言われそうだが・・・)

      -これまた、たたき台の一つということでご容赦していただければ-




 振り向いて、キャベツはゆっくりと言った。

「教育や洗脳というのを、どう定義するかにもよるだろうけど」

 こたつに戻りながら、続けた。

「そもそも、教育それ自体が、洗脳、とも言える」




「うん、そうだね」

 思いがけず、同居人から同意を得た。

「でも、そう思われないのは、周囲も同じ環境を経てきたり、同じような考え方だから」

 これにも、違和感がないようだ。


「もちろん、教育の第一の目的はそれではないとしても、

 また、今でこそ、個性を伸ばす、その人の能力を高めるということがよく言われるけれど、

 何らかの価値観に乗っ取って、社会に適応できるようにする、

 右ならえ、というような、

 型にはめる、という役割もあるだろ?」


「加えて、日本は『出る杭は打たれる』よね」

と、同居人は言った。


「海外から見たら、日本の教育がおかしい、ということもあるだろうし、

 逆に、日本から海外を見たら、それまた変じゃないかということもあるし。

 どこから(どこを基準として)みるか、で、けっこう異なる。」





(続く)


 (このとき、言わなかったことだが、戦前の日本の教育、たとえば、
 
  「天皇は現人神(あらひとがみ)であらせられる」とか、

  ポル・ポト政権が行った教育は、

  教育というべきか。それとも、洗脳と言うべきだろうか。)



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教育と洗脳 (3)

2016-01-21 02:14:58 | Sunday 集会・生活
こどもの権利に関する条約14条1項

 「締約国(ていやくこく)は,思想,良心及び

宗教の自由についての児童の権利を尊重する」


14条2項 

「締約国は,児童が1の権利を行使するに当たり,

父母及び場合により法定保護者が 児童に対し

その発達しつつある能力に適合する方法で

指示を与える権利及び義務を尊重する」



(続き)



「じゃあ、たとえば、いわゆる洗脳はどういうことかとなると・・・

 たとえば、『外部との接触・交流をなくして、

 外は自分に害をなすと教え込むこと』・・・というのは、洗脳(の一種)と言えるかもしれない」


「そうね。そういうのがあったら、洗脳と言っても

 おかしくないね。」

 同居人は、2杯目のごはんを盛りつつ、言った。


「一方、教育というと・・・、

 親は、自分の正しいと考える通りに従って、子どもを教えることはできるよね。」


「うん。

 だから、(おばあちゃんたちが)『クリスチャンになれ』というなら、そう教育すれば

 良かったのに」


 コーヒーをまた一口飲み、キャベツは首をすくめて言った。


「いやいや。

 いくら、『そんなのに行って、何になる!』などと罵(ののし)られたり反対されても、

 私みたいに クリスチャンになる奴もいるわけで、さ。」


「うん。キャベツは、そうだったね」


「信じるなって言われても、

 こうして、それを選ぶ者もいる。

 信じろ、って言われても、

 そうならない者もいる」


「まあ、そうだね」


「子は、たしかに 親の影響下にあるが、

 何を選択するかは、本人の自由だよ」


 ふむふむ、と理解を示すような動きをする同居人に、私は、だけどね、・・・と、少々ことばを濁した。


「ただ、いくら、その人の自由だからといって、

 たとえば、『オウム真理教に行きたい!』とか『ISに入る!』というのを、

 OKとするか・・・」


 同居人は、しばし黙ったのち、難しいね、と考え込む顔つきになった。


(続く)




(ちなみに、広辞苑によると、

「教育」=「教え育てること。望ましい知識・技能・規範などの学習を促進する
      意図的な働きかけの諸活動」

「洗脳」=「新しい思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること」

です。

 会話自体は、「教育と洗脳の違い」そこそこに、「個人の選択の自由」のほうに若干シフトしてしまっていますが…)

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教育と洗脳 (4)

2016-01-21 01:45:08 | Sunday 集会・生活
『これは、神を求めさせるためであって、

もし探り求めることでもあるなら、

神を見いだすこともあるからです。』

(新約聖書・使徒 17章27節)



(続き)



 その後、元の話にいつの間にか戻り、同居人が、再度、

「そんなに心配なら、(自分を)洗脳でもして、信じさせておけばよかったのに」

と吐露(とろ)した。


 先の話で、教育されてなくても聖書を信じる者もいるし、そうではない者もいる…という話のあとで、

こういう感想が出てくることに関して、誤解がないよう、私の知りうる範囲で記しておかなければならないことは、

この言葉(感想)は、この発言者の“好意”であるということだ。



    ************


 この発言者(同居人に限らず)は、今、そもそも、救われたいと思っていない。

 不自由があっても抑圧されていても、だからといって“神”とよばれる存在に

 すがって、解決される、事態が良くなるとは思っていない。

 そもそも“創(つく)り主(ぬし)”がいる、とは、思っていない。

 加えて、「そんなものを信じたって虚(むな)しい」と示す人々も見ている。




 一方で、真面目に信じて、心底、自分のことを心配して言ってくれる人々がいる。

 その愛情も感じている。




 だからこそ、自分はそう信じたいとさえ思っていないけれど、それが本当だというならば、

「洗脳でもしておけばよかったのに」

 という発言に至ったのだろう。

 (ただし、こちらからすると、侮っているな、という感も否めない)




     **********


 そんなわけで、こう返答した(ような気がする)。



「いやいや、教育されたから、とか、洗脳されて、信じるものではない。

 クリスチャンになる、ということは、それと同時に、

 主が内在される(神がその人のうちに住まわれる)ってことだ。洗脳でそうなるワケではない。



 加えて、私たちは、命令されたことしかできないような旧型ロボットのように、創られたのではなくて、

 選択の自由を与えられているんだ。

 強制されて、信じるものでもない。



 ただ、その自由をもって、

 自分(神)の元に戻ってきてほしい、と願っておられるんだよ」



         



『私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。

 あなたは いのちを 選びなさい。』


(旧約聖書・申命記30章19節)




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