―『眠った人々のことについては、兄弟たち、
あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように 悲しみに沈むことのないためです。』
(新約聖書・テサロニケ第一 4:13)
あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように 悲しみに沈むことのないためです。』
(新約聖書・テサロニケ第一 4:13)
ある人が亡くなった。
何度となく経験していても、
死は 悲しみを運んでくる。
しばしば、ぽっかりとした喪失感まで。
だが、クリスチャンならば、一つ希望がある。
また、天で会える、と。
それゆえ、賢いことかどうかはわからないが、
正直な願いを、
吐露(とろ)する。
「せめて、死ぬ前にはクリスチャンになれよ」
いや、それは、正直ではない。
もっと正直に言うならば、
―早く、だ。
すると、同居人は言った。
「無理だよ。信じてないもん」
私は言った。
「当たり前だ。
信じないで、クリスチャンになるもんじゃない」
「おばあちゃんも、K(同居人の兄の一人)も、『信じろ』っていうけど、
信じてないのに、どうやって、なれっていうのよ。
それなら、
子どもの頃から、そう教えておけばよかったじゃない!」
(ちょっと複雑になった:オレは、K達をある種そう育てたが、この子たちには関与できなかったんだよなぁ…う~む…)
その後、「ごはん、うま~~~い!」「××、おいし~い!!」などと夕食を食べている最中、
同居人は、急に尋ねてきた。
「ねえ。教育と洗脳の違いって、なに?」
(続く)
(同居人の許可取得済み)