『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。
そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人(ぬすびと)が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。
そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。』
(新約聖書・マタイの福音書 6章19-20節)
加えて、株で暴落することもありません。
保障は1千万円まで、とも言われていません。
とはいえ、そもそも、
ほんまは、神さまにたいしては、借金だらけのようなものなのになぁ・・・
良いことはちい~~~さなことでも、神様に対してしたこととカウントしてくださるとは(ex.マタイの福音書25章40節)。
>あんなに(中略)、そんなことを言い出すなんて、とスタッフらは思ったそうな。
スタッフの何人かが、実際にそう表現したのかもしれません。されど、どういう意味で言ったか。いろいろあります。それを通りすがりに聞いた人は、それまでの経験や知識、要はその人の度量で、理解するしかないのですが。
ただ、もしも。本当にそのまんまで。「そんなこと言い出すなんて」と、何か思いがけないものでも見るかのような(ぁ、ここ、かなりブラックな表現ですよ)思いしか考えつかないスタッフだとしたら。医療(なのか福祉なのか不明ですが)に携わるかたとして、もう少し精進して下さいまし、ですね。
治療開始前の、完全な説明不足です。インフォームド・コンセントがなされていません。起こった結果は、家族にとっては不測の事態ですが、医療および福祉でご飯たべてる人間にとって、短期的影響および長期的影響ともに、予測範囲内の事態でした。
看護師さんへ。「助けてください」といわれて、救命処置の最優先は当然です。ですが、患者の推定意思の確認および代理意思決定者の支援、は看護師さんの責務です。代理意思決定にあたって、生命予後と機能予後について、十分な説明がなされていなかったようですね。
それらすべて。十分にふまえた上で。それで、スタッフの方々(看護なのか何か不明ですが)は「そんなこと言い出すなんて」と表現したのではないでしょうか。「言い出すなんて」の後にまたは行間に、何が隠れているか。何をのみこんだか。何をすべきで、また何ができなかったとおもったのか。
スタッフの心情を思ってみると。思えば思うほどに奥が深い商売です。
加えて。最後の部分も。
>たぶん、介護疲れなどで憎しみを抱くことはあったとしても(後略)
憎しみを抱いて、その夫君と子どもさんたちはおっしゃったのでしょうか。残念ながら、そのようにとらえたように、よみとれます。
倫理的調整まではまだまだ難しいとしても、倫理分析のために、いろいろなバランスシートが開発されていますよ(^-^)
というのも、
聖書や神様に信頼していない人は、クリスチャンに「なんでキリストさんなんか信じてるの?」と言い、
神様に信頼している人は、そうでない人に対して、「なぜ、キリストを信じないんだ?どうして、この贈り物を受け取ろうとしないんだ?」と、
お互いに、とても素朴に、だが、心底、疑問に思ってしまうだろうなと思い巡らしまして(苦笑)
おにぎりさんが、他者の勧めに、乗っかってくださるかどうかわかりませんが、お暇なとき、いつか、聖書を手にとってみてください。
信じる、信じないは、各自の自由。各自の責任。
だが、少なくとも、また違った、世界が広がるかもしれません。・・・そもそも、聖書は味わい深いもんですから、ホントに。
う~~~~~ん・・・・。
わからん。わかりません。わかりまへん。
わかっているのは、具体的には、聖書に触れる機会があったということ、神様がいらっしゃるということをもともと感じていたこと、くらいでしょうか。
私自身、「信じろ」なんて言われたこともありませんし、それで信じるわけもありません。
聖書に触れて、それが信頼できるものだと実感し、そのように示され、今に至ります。
もしかすると、ご理解いただけないかもしれないが、そうなるように神様が守って、導いてくださったとしかいいようがない。また、どこかで祈ってくれていた方々のゆえに。
おにぎりさんは、死後の世界があると思いますか? それとも死んだらすべてなくなると思いますか? それとも、また生まれ変わっていくのだと思いますか? それとも、よくわからないし・・・と考えることを先延ばしにしていらっしゃいますか?
私はですね、死後すべてが無に帰するとも感じられないし、実際、裁きがあり、いわゆる天国と地獄(←厳密には、この表記はびみょ~~~)があると思います。
だから、天国で、また家族とも友人とも、再会したい。
もちろん、私は2000前にタイムトラベルして、キリストに出会ったわけではないけれど、その当時、迫害にあっても爆発的にクリスチャンが増えました。それは「信じたい」から「信じた」わけでもなく、それを、信じられないことだがそれを、目撃した方々が、信じざるをえませんでした。
今は、聖書に触れること、もしくは誰かが紐解くことで触れるのかもしれませんが、たとえ、家族が同じように思ってくれていなかったとしても、何があろうとも、神様は約束をたがえることはない、と信頼しています。
ある一家のお母さんが、何らかの事故で、気管切開をし、人工呼吸器もつけ、とにかくあらゆることをしなければ生きられない状況に陥りました。
その人は、その家庭で太陽のような人だったそうです。だから、家族は「とにかく何でもして、助けてください」と医者に言ったそうな。
その結果、そのお母さんは生きることはできました。話すことも反応を返すことも何もできませんが、とにかく人工呼吸器のおかげで息をして、点滴のおかげで栄養も行き、病院のスタッフに毎日キレイにしてもらって、そうして時が過ぎていきました。ご主人は毎日のようにお見舞いにも来ていたそうです。
ただ、そうするためにはお金がかかります。そのために、息子さんの一人は買ったばかりの家を売り払い、ご主人も何とか工面して・・・家族は何もかも犠牲にして、その状態を保とうと頑張りました。
そして、1年ちょっとすぎた頃、思わず、医者にこう聞いたそうです。「どうにか、(妻が)苦しまずに逝ける薬はありませんか。」あんなに、奥さん思いのご主人が、そして、あのお母さん思いの息子さんたちが、そんなことを言い出すなんて、とスタッフらは思ったそうな。・・・その後の顛末はわかりませんが。
たぶん、介護疲れなどで憎しみを抱くことはあったとしても(良かったときを知っていると、そのときの姿を思い起こすからなおさら辛いことも。)、寂しいとは感じないかもしれない。
この記事を書いた頃は、とくに、株で「老後の資金が半分以下に・・・」と嘆く方々などを念頭においていたから、ああいう感じになったんですけどね。
Oui(ウィ)、「家族が宝だ」と言う人も出てくるだろうな、とも思っていました。私自身、「兄弟が宝だ」と思っていますから。だから、
>自分の家族が宝って寂しいかな?
と言っているけれど、どうして、それを「寂しい」と感じるのだろう?と逆に感じてしまいます。
いやいや、それとも、何かくすぶっているものや怒りを内に秘めているから、そのような問いかけになったのだろうか?とも。
顔と顔を合わせて話をするのならば、どういうニュアンスでそう言ったのかもう少し理解できるだろうけれど、申し訳ない、一つの可能性として、何か心に「寂しい」と言うほどでもないけれど、何かしら隙間風が吹いているから、そういうのかな・・・?とも感じてしまいました。もし、見当違いだったら、ごめんなさい。
自分の家族が宝って
寂しいかな?
でも高騰するし、
暴落もする。
何でキリストを
信じる様になったのかな?