(モンマルトル墓地Cimetie`re de Montmartre 2009年撮影)
『祝宴の家に行くよりは、
喪中の家に行くほうがよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者が、
それを心に留めるようになるからだ。』
(旧約聖書・伝道者の7章2節)
**********
最近、何人かの、葬儀があった。
そのうち、お一人は、キャベツが若かりし頃に行った、
黒板消しをドアに挟む、というベタなトラップに見事ひっかかったお人だった。
すぐ連絡を受けたキャベツは、できたら葬儀(告別式)に出たいと思ったが、
かなわなかった。むろん、そこに、彼がいるわけではなく、ただ、人々がしばしの別れを忍び、
気持ちを整理するために、葬儀はあるわけだが。
************
そんな中、こんな会話もあった。(注:どちらもクリスチャン)
祖母「いい式だったよ・・・息子さんたちが代わる代わるお父さんの思い出を話してくれて。」
孫 「そっかぁ・・・私の場合は、そういうことはなさそうだなぁ・・・(しんみり)」
祖母「私もなさそうだよ・・・」
孫「さあ・・・それはなんともわからないけれど。
ただね、ばさま! 葬儀の希望があったら、とりあえず、こっちか○○に伝えといて。」
祖母「そうだねぇ・・・でも、希望を聞いてもらえるかなぁ・・・」
孫「言わないよりは、言っておいた方が、まだいいと思うよ?
それと、皆、『密葬』がいいだの、『死亡通知を出すだけ』でいいだの、色々言うんだけど、
紙に書いておいてもらったほうが、こちらは助かる」
(たとえば、ある人は、戦友の召天式(お葬式)の式次第の紙に、「自分のときは…」
とばかりに、歌う聖歌の番号やらなんやら書き残していたっけ・・・
それを見て、229「驚くばかりの」はわかるけれど、634は、…貴方を知っている人にしか
わからないだろうな、と苦笑させられたものだった。)
祖母「じゃあ、そのうち、考えておくよ。」
孫「まあ、『私が生きていたら』だけどね。こっちが先のときは、ごめんね」
祖母「そうだね。明日のことは誰にもわからないからね」
(戯言を言わせていただきますと。
その場合、
・・・葬儀の最後、出棺するときに、
「本日は、わざわざ私のためにお集まりいただき、ありがとうございました。
一足早く天国に行かせていただきます」
等と、テープに吹き込んだ声を流してもらうのは…難しいかな…。と、キャベツ考え中。
葬儀の希望:、
◇旧聖歌476「安けさはかわのごとく」
◇旧礼拝讃美歌28「たたえの歌こそ」
◇メッセージは短く
何はともあれ、神様が憐れんでくださって、かつ皆様にとっても良いように計らって下さることを
お願いするしかない。
どのみち、人は野に咲く花のように消え、
そこにいたことさえ忘れられる。)
**********
・・・もひとつ、ちなみに、結婚式と葬式、どちらに出席するのが嬉しいかと言ったら、
もしかすると、前者が多いだろうか。
(いや、どちらも面倒、いやだ、という人が多いかもしれない)
マナー上、葬式に出るのが望ましい、という人でも、葬式が
嬉しい人は、あまりいないんじゃないか、と思う。
(いや、そんなことどうでもいい、という人がけっこういるかもしれない)
だが、聖書は、しばしばそれらとは異なることを言う。
確かに、それは、
・・・人の死を見ることは
-その人がいなくなったことを悼むだけではなく-
自分(の生きざま)を振り返る機会となるかもしれない。
ノーベル賞を創ったノーベルさんのようなことは、そうそうないだろうから。
(同上)
『祝宴の家に行くよりは、
喪中の家に行くほうがよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者が、
それを心に留めるようになるからだ。』
(旧約聖書・伝道者の7章2節)
**********
最近、何人かの、葬儀があった。
そのうち、お一人は、キャベツが若かりし頃に行った、
黒板消しをドアに挟む、というベタなトラップに見事ひっかかったお人だった。
すぐ連絡を受けたキャベツは、できたら葬儀(告別式)に出たいと思ったが、
かなわなかった。むろん、そこに、彼がいるわけではなく、ただ、人々がしばしの別れを忍び、
気持ちを整理するために、葬儀はあるわけだが。
************
そんな中、こんな会話もあった。(注:どちらもクリスチャン)
祖母「いい式だったよ・・・息子さんたちが代わる代わるお父さんの思い出を話してくれて。」
孫 「そっかぁ・・・私の場合は、そういうことはなさそうだなぁ・・・(しんみり)」
祖母「私もなさそうだよ・・・」
孫「さあ・・・それはなんともわからないけれど。
ただね、ばさま! 葬儀の希望があったら、とりあえず、こっちか○○に伝えといて。」
祖母「そうだねぇ・・・でも、希望を聞いてもらえるかなぁ・・・」
孫「言わないよりは、言っておいた方が、まだいいと思うよ?
それと、皆、『密葬』がいいだの、『死亡通知を出すだけ』でいいだの、色々言うんだけど、
紙に書いておいてもらったほうが、こちらは助かる」
(たとえば、ある人は、戦友の召天式(お葬式)の式次第の紙に、「自分のときは…」
とばかりに、歌う聖歌の番号やらなんやら書き残していたっけ・・・
それを見て、229「驚くばかりの」はわかるけれど、634は、…貴方を知っている人にしか
わからないだろうな、と苦笑させられたものだった。)
祖母「じゃあ、そのうち、考えておくよ。」
孫「まあ、『私が生きていたら』だけどね。こっちが先のときは、ごめんね」
祖母「そうだね。明日のことは誰にもわからないからね」
(戯言を言わせていただきますと。
その場合、
・・・葬儀の最後、出棺するときに、
「本日は、わざわざ私のためにお集まりいただき、ありがとうございました。
一足早く天国に行かせていただきます」
等と、テープに吹き込んだ声を流してもらうのは…難しいかな…。と、キャベツ考え中。
葬儀の希望:、
◇旧聖歌476「安けさはかわのごとく」
◇旧礼拝讃美歌28「たたえの歌こそ」
◇メッセージは短く
何はともあれ、神様が憐れんでくださって、かつ皆様にとっても良いように計らって下さることを
お願いするしかない。
どのみち、人は野に咲く花のように消え、
そこにいたことさえ忘れられる。)
**********
・・・もひとつ、ちなみに、結婚式と葬式、どちらに出席するのが嬉しいかと言ったら、
もしかすると、前者が多いだろうか。
(いや、どちらも面倒、いやだ、という人が多いかもしれない)
マナー上、葬式に出るのが望ましい、という人でも、葬式が
嬉しい人は、あまりいないんじゃないか、と思う。
(いや、そんなことどうでもいい、という人がけっこういるかもしれない)
だが、聖書は、しばしばそれらとは異なることを言う。
確かに、それは、
・・・人の死を見ることは
-その人がいなくなったことを悼むだけではなく-
自分(の生きざま)を振り返る機会となるかもしれない。
ノーベル賞を創ったノーベルさんのようなことは、そうそうないだろうから。
(同上)
今は昔。
ちび達(キャベツ兄弟;キャベツを除く)が、公園から帰ってきて、
手も洗わずに、
食事の用意が出来たテーブルに座ったとき。
「あれ? 忘れてること、ない?」
そう尋ねると、
子どもらは顔を見合わせて、
そそくさと洗面所に向かった。
すぐさま、
蛇口をひねる音が聞こえる。
バジャ~!!
と、水しぶきが感じられるような
勢いのある水の音が聞こえる。
そして、皆、バタバタと戻ってきて、
食事の席についた。
満点の笑みをたたえて。
************
ついで、すぐに、
食事の箸を取ろうとすることがある。
場合によっては、
キャベツがいないうちに、箸をおかずにつけている。
「もちろん、(食べる前に、)お祈りしたよね?」
そう確認すると、
ちび達は、
一瞬、手の動きが止まったあと、
すぐさま、
口につけた箸を置き、
手を組んで、
目をつぶり、
うつむいて、
唇をぶつぶつと軽く動かしたあと、
目をゆったりと開けて、
キャベツに向かって、
ステキな笑顔で
こう、返事をしたものだった。
「もっちろん!!!」
(それにしても、こうして振り返ってみると・・・よく、我が兄弟に、
「食前にお祈りする(感謝をして、食事をいただく)」という習慣が、ついたものだ。
おそらく、母方の祖父母らのおかげだろう。)