ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
『ホテル・カリフォルニアの殺人』(宝島社文庫)発売中です!

『ねらわれた学園』

2020-04-11 16:26:13 | 映画



映画監督の大林宣彦さんが亡くなりました。

享年82歳。

時節柄、すわコロナかというふうになってしまうんですが……肺癌をわずらっておられたんだそうです。


私は大林監督にそれほど明るいわけでもなく、その作品も以前『時をかける少女』を観たことがあるぐらいだったんですが……この機に、監督の『ねらわれた学園』という映画を観てみました。

 

正直なところを告白すると、ブログのネタになるかもしれないななどというよこしまな気持ちもあってなにげなしに視聴したんですが……しかし、実際に観てみると、これがものすごい作品でした。

※以下、映画『ねらわれた学園』の内容に言及しています。観ていない方はご注意を。

大林監督といえば、自主で制作した最初の映画が『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』というものすごいタイトルだったんですが、まさにそのセンスです。『ねらわれた学園』の原作は眉村卓さんですが、このサイケデリックな映像世界は、大林監督ならではでしょう。本作は、大林映画のスタイルを確立した作品ともいいます。

独特な映像表現だけでなく、そのストーリーにもまた、考えさせられるものがありました。

ストーリーは、超能力をもってしまった少女・三田村由香(薬師丸ひろ子)と、世界支配をたくらむ悪の存在との戦い。先日記事を書いたスティーヴン・キングの小説にでもありそうな話ですが、まさにああいう感覚でしょう。そしてそれが、ただのSFではなく、深いテーマを内包してもいるのです。

物語の舞台は、第一学園高等学校。
主人公の通うこの学園に、不思議な転校生・高見沢みちるがやってきます。彼女は、間近にせまった生徒会長選挙に立候補。75%もの得票で当選し、そこから学園内にまるでナチスのような独裁体制を築いていきます。それまで自由奔放だった学園に秩序をもたらすといい、選挙という合法的な手段で生徒会長となった彼女は校内パトロールを創設。学内を監視し、風紀を乱す生徒たちを次々に取り締まり、その体制に逆らおうとしたものは自らの持つ超能力で排除していくのです。

ここに、深い世界史的テーマがみえてきます。

退廃した自由のなかに秩序をもたらすといって、独裁恐怖政治が完成する――そこでは、体制に従った者たちは、まるで死人のように青ざめた顔をしています。デフォルメによって滑稽にみえる表現ではありますが、ここにはあきらかにファシズムのイメージがあります。

この全体主義に、主人公・三田村由香は敢然と立ち向かっていくのです。

もっともはじめは、漠然と反発しているだけでした。
彼女は、ボーイフレンドの関に、懸念を吐露します。

 もしもよ、誰かの考え一つで、大勢の人に命令したり、いうことを聞かせるようになったとしたら……あたし、なんだか考えるとすごく怖いの。


その不安は的中し、事態は急速にエスカレートしていきます。
やがて学園全体が無気味な力に支配されていくと、由香は、自由な世界を守るために戦うことを決意するのです。
かつての賑わいが嘘のように静まり返った校舎に、彼女のモノローグが響きます。

  たしかに、誰かがこの学園を狙っている。
  私は、戦います。
  自分が正しいと信じたとおりに行動します。
  きっと神さまも、そんな私に力を貸してくださったのだわ。


敵の本拠地・英光塾を舞台としたクライマックスは、派手なアクションこそありませんが、強い説得力を持っています。

実は、独裁者となった高見沢みちるは、操り人形でしかありません。
本当の黒幕は、金星からやってきたという“星の魔王子”。
彼は、英光塾という塾を隠れ蓑として、若者たちを洗脳し、仲間を増やしていたのです。

仲間を助けようとする由香にむかって、魔王子は、そんなつまらないことに力を使うなといいます。それに対して、由香はこう反論します。

  人を助けるのがつまらないことなんですか。
  あなたはやっぱり人間じゃないんですね。

それに対して、魔王子は、「私は宇宙だ」と高らかに宣言。
彼にとっては、自分の理想とする世界を実現することこそが至高の目的であり、そのためなら他人のことなどどうでもいいのです。だから、他人を助けるなどということに価値を見出せません。最初期に自分の手下となったものさえ、あっさりと切り捨ててしまいます。

結果としては――当然ではありますが――由香はこの戦いに勝利。
戦いが終わった後には、洗脳された生徒たちにむかって「家に帰りましょう」と呼びかけます。
このブログでは何度か書いてきましたが、「家に帰る」という表現は、正しい道、あるべき姿に戻るといったような意味合いを持ちえます。この映画においてもそうでしょう。高見沢みちるは実は行方不明となっていた少女だったんですが、彼女が「おかえりなさい、みちる」と母親に迎えられ「ただいま」と応じる場面は、この映画のもう一つのハイライトといえます。


この作品の背景には、大林監督が敗戦を経験した世代ということもあるでしょう。

尾道三部作などでも知られるように監督は広島県尾道市の出身ですが、原爆投下の直前に広島市内を訪れていたそうで、そのときにみた産業奨励館が原爆投下で無残な姿に変わり果てたのを目の当たりにしました。そこからずっと厭戦の姿勢があり、遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」も、そういうテーマで描かれているそうです。奇しくもこの作品は、昨日公開されるはずだったのがコロナ禍で延期になったところでした。

そして、その厭戦の姿勢から、大林監督は日本の現状も憂慮していました。
昨年行われたあるシンポジウムで、被爆者の話として、「戦争が始まる10年ほど前から世の中がじわじわ変わった」「そして今、その当時に世の中が似ていて不気味だ」という言葉を紹介しています。

今回の訃報を受けて朝日新聞に追悼の記事が出ていますが、そこにも、大林監督の発した「日本人はなぜそんなに戦争を簡単に忘れてしまうのか」という問いが紹介されていました。その問いに対する監督の答えは「それはひとごとだからだ」です。「誰もが“自分事”にしなければならない。それが映画なんだ」――そして、「過去は変えられないけど、映画で未来は変えられる」という信念にしたがって映画を制作しました。

『ねらわれた学園』にも、たしかにそうした意図が読み取れるように思います。
聞こえのいい言葉とともにじわじわと作り上げられていく全体主義のおそろしさと、それに抗う勇気。ひとごとではなく、それを自分事としてとらえ、敢然と立ち向かうこと。自分が正しいと信じたとおりに行動すること――そういうメッセージでしょう。これは、全日本人必見の映画だと思いました。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。