今月の8日、真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発の日ということで、このブログで、ひさびさに近現代史記事を書きました。
そこでは十月事件のことを書きましたが……こうして軍部の暴走で時局が緊迫するなか、政界でも大きな地殻変動が起きていました。
満州事変後、その処置をめぐる混乱の帰結として、犬養毅が首相となります。
今日12月13日は、その犬養政権が誕生した日なのです。
――ということで、今回は、8日の記事の続編として、犬養政権について書いてみようと思います。
犬養毅は、第一回の衆議院議員選挙で当選し、それからずっと議員であり続けた人で、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれました。
その犬養がいよいよ首相となったのが、昭和6年の12月13日。
これまで書いてきたように、この頃は昭和史の大きな転換期でした。
満州事変の直後であり、後から見れば、大日本帝国が崩壊にむかっていく、その終わりのはじまりともいえます。
当時の政治家たちも――終わりのはじまりとまで思っていたかどうかはわかりませんが――相当な危機感を持っていました。
満州事変勃発当時の若槻政権で内務大臣を務めていた安達謙蔵も、そんな一人です。
内務大臣という立場にあった彼は、十月事件に関してもいちはやくその概要をつかんでいました。そして、その詳細を知って、もはや若槻政権では現下の情勢に対処不能と判断。この危機を乗り切るべく、“協力内閣”樹立にむけて運動します。
当時の二大政党である民政党と政友会の双方が協力して作る内閣……これによって、困難な状況を打開しようというわけです。
しかし、皮肉なことに、この協力内閣運動が政権内部に亀裂を生じさせます。
若槻首相は賛成だったようですが、閣僚の中から強固な反対の声があがりました。
それでも安達はあくまで協力内閣構想を推し進めようとしますが、ついには若槻から辞任を要請される事態に。しかし安達はそれを拒否し、閣内不一致によって若槻政権は空中分解。そうして、政友会の犬養毅が総理大臣となるのです。
結果として、半年後に起きる5.15事件で犬養は殺害され、これが政党政治の終焉とされます。
犬養毅が、第一回の衆議院選挙で当選してから、首相にまで上り詰め、凶弾に倒れた――これは、単に政党政治の終焉というばかりでなく、もっと大きな何かがここで終わってしまったように私には思えます。
その点については、いずれ5.15事件について書くときもあろうかと思うのでそこにゆずりますが……
ともあれ、犬養政権の誕生がこういう経緯によるものだったということは、その後の日本の行く末を暗示しているようにも思われるのです。
安達謙蔵の協力内閣構想は、はたして有効だったのか。
正直なところ、疑問です。
政友会、民政党の双方が協力する内閣というのはその後いくつかできています。中間内閣とか挙国一致内閣などと呼ばれますが……しかし、ではそれが局面打開につながったかというとそうではありません。
むしろそれは、政治の限界をあきらかにしました。
政治の側がどうであろうと、そこで決定されたことに軍が従わなければ意味がない……という限界が、これら“協力内閣”において露呈してくるのです。
そういう意味では、問題は政党政治云々ではないともいえます。
仮に政党政治がしっかり機能していたとしても、軍の暴走は止められなかったのかもしれません。
しかし――そうはいってもやはり、議会のあり方と軍の暴走との関係に注目しないわけにはいきません。
両者には、負の連鎖と呼ぶべき関係があります。
政党政治というものがいかに日本政治に定着していなかったかは、5.15事件とその後の動きで顕在化することになりますが……そもそも、政党政治に対する幻滅が昭和六年以降に続発した一連の事件につながっていることは疑いようがありません。
端的にいって、当時の国民は政党政治に嫌気がさしていたのです。
理由の一つは、二大政党にそれほどの差異がなかったということが挙げられるでしょう。
戦前の日本では実質的に革新政党というものが存在しえなかったために、二大政党は明確な対立軸を持ちませんでした。子細にみれば、政友会は積極財政・対外強硬主義で、民政党は緊縮財政・国際協調主義……といった傾向の違いはありますが、それらはいわば各論の違いであり、根本的な差異はないわけです。
そのこともあって、この二つの政党は政策論争を戦わせるのではなく、スキャンダル合戦で相手を貶めるといったことを繰り返していました。国会内で乱闘騒ぎになったこともあります。政党政治の時代に日本の国会で行われていたのは、議論や論争ではなく、政争、抗争でした。そのていたらくに、国民のあいだで政党政治に対する嫌悪感が醸成されていったようです。
犬養毅に話を戻すと、彼もまた、そんな不毛な政党間抗争に身をやつした一人でした。
日本政治にとって致命的な問題となったのが“統帥権”なるものの不可侵性ですが、ほかならぬ犬養毅もまた、ロンドン海軍軍縮条約でもちあがった統帥権干犯問題を民政党攻撃に利用していたのです。
このあたりに、限界があったんだろうと私は思ってます。
第一回の選挙から当選し続けた「憲政の神様」――彼は近代日本議会政治の体現者であり、それゆえに、その限界を体現してもいたのでしょう。
もちろん野党が与党を批判するのは当然ですが、なんでもかんでも与党批判に利用すればいいというものではないだろうと。政党政治そのものが危機にさらされている状況があるなら、与野党の垣根を超えてそれを防ぐべきだったんではないか。それができていれば、国民が政治家を見る目もちがったものになっていたのではないか……
先月の議会開設130周年という記事でも書きましたが、この国では130年間、まともな政党政治が行われたことは一度もないと私は思っています。そういう土壌を作りうるわずかな期間が戦前にあったわけですが、犬養内閣はその終幕ということになりました。
私が思うに、この国でまともな政党政治が育っていくのを阻害した要素は、敗戦と民主化を経ても根絶はされず、現代にいたるまで根強く残されています。
ここをどうにしないといけない。
そのためには、政治の側が理念を持つこと、そしてそれによって、一般国民と政治との距離を縮めること――といったところでしょうか。100年以上にわたって形成されたあり方を変えるのは難しいことですが……