ロック探偵のMY GENERATION

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“民主”はどこへゆく

2020-08-12 16:13:09 | 時事



長らくくすぶっていた立憲民主党と国民民主党の合流話が、一応の決着をみました。

合流はするものの、国民民主党の代表である玉木さんは参加せず。国民民主党は“分党”し、合流したい人だけが立民に合流……ということだそうです。

既視感にあふれる結末ですが、まあ、ある意味では妥当かも知れません。
主張の違う人たちが無理に一緒になってもうまくいかないだろうから、考えの一致する議員だけでまとまろう……たしかに一理あります。

しかしながら、それでは与党に拮抗しうるだけの勢力は作れないのではないか。
これもまた、過去の離合集散劇に示されているところでしょう。

基本的理念の一致は重要ですが、その基本的理念の範囲が広すぎると、結果として果てしない離合集散が繰り返されるばかりです。そこのバランスがうまくとれていない。これもつまりは、この国でまともに議会制民主主義が機能していないということの一環と私には見えます。日本では、明治時代に議会を始めるというときにその土台の建付けを間違えてしまった。いびつな土台のうえに、いびつな議会を組み立ててしまった。それは、政府与党と官僚のあり方をゆがめただけでなく、与野党の関係や、有権者と政治の関係までもゆがめてしまった……つまりは、与野党間だけでなく、野党内部、あるいは野党間でも議会制民主主義は機能しなくなっている。そのことを、この十年ほど私たちは見せつけられているのだと思います。簡単にいってしまえば、「話し合って双方の折り合いがつく妥協点をみつける」ということが、与野党間だけでなく、野党同士でもできない。意見があわないとすぐにちゃぶ台をひっくり返してしまう。

このゆがみをただすには、数十年、へたすると百年以上の時間がかかるんじゃないかという気もします。

しかしそれは、百年かけてもやらなければなりません。

ひとまず今の野党に必要なのは、立民の石垣のりこさんがおっしゃっているように、基本的な「理念」と個別の「政策」を区別すること。
基本的理念を整理し、その基本理念に含まれない個別具体的な政策に関しては、党が自分の意思と違う決定をしたとしてもとりあえずいったんは飲み込む――そういうことでしょう。

ばかばかしいぐらい当たり前の話ですが、それが成立しないのがいまの日本政治の現実です。

自分の意見が容れられないと、すぐに「じゃあ出ていきます」となって分裂――ということを野党は繰り返してきました。
これでは政権を担うだけの規模をもつ政党にはなれないし、有権者から信頼を得られないのも自明です。
海に行くか山に行くかで意見がわかれ、多数決で「海に行く」と決まったら、「山に行く」派はひとまず我慢して海へ行かなければならない――これは、多数決という意思決定方式のもっとも単純でもっとも深刻なジレンマであって、そこを克服しなければいかなる合議も成立しません。それで、じゃあ俺たちだけ別行動で山に行くよ、と言っていたら、この人たちに国を任せて大丈夫だろうかと有権者が不安になるのも無理ない話です。

意見がわれたときの、きちんとした意思決定システムを確立する。
まずそこから始めないと、この国にまともな議会制民主主義は成立しないでしょう。


《追記》
ここからは余談ですが……
玉木雄一郎さんの今回の行動は、多くの人が不可解と感じているようです。
それは批判や怒りというよりも、むしろ“呆れ”で、もう何がしたいのかよくわからないというか……まあ、玉木さんが何を考えてるのかよくわからないというのも前からいわれてることではあるんですが。ひょっとしたら、誰かさんのように、そのうち何食わぬ顔で自民党に入ったりするんじゃないかとも私はひそかに疑ってます。

玉木さんは、2009年民主党政権を誕生させた総選挙のときに初当選した人ですが、その初登院のとき、一番乗りしようとして午前三時ごろに国会にやってきたら、かの三宅雪子さんが先に来ていて一番乗りを逃したというエピソードがあります。
この話は、玉木雄一郎という政治家のその後を暗示しているようにも感じられます。その有能さを周囲に認められながらも、つねに周囲の動きに一歩遅れて漂流するというような……そういう意味では、時代にめぐまれなかった悲しい政治家なのかもしれません。










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