手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

酒は強くなる ! でも、もう歳です。

2005-04-16 22:15:52 | 身辺雑記
酒のようなものを飲んだのは、16歳くらいの時だった。父が小学校の校長で、公宅が学校にくっついていた。お盆になると校庭にやぐらが組まれ、盆踊りが何日も、それも夜中過ぎまで続くのだ。当時は子供も一緒に踊ることが当たり前で、楽しみだつた。そんなある日、ふと父がドブロク(濁 酒)を仕込んでいたのを思いつき、家中が踊りのほうに出ているのを見計らって、一人で家に入り茶碗に、一杯ドプロクをついで飲んでみた。甘酒のようだが、甘酒ではない。甘酒のようにおいしいものではないがそれを飲んだ。そして、踊りに加わった。間も無く頭ががんがん痛くなり、吐き気が催して、たまらなくなり、校舎の横に行って吐いた。そのまま家に入りうなるようにして寝た。
 それから、全く酒に興味を持つことも無く、第三師範(旭川師範)の本科に入学し、汽車通を始めたのだが、暫くして通学生の歓迎会が持たれた。その席に酒が出た。湯飲みについで出された透明な酒である。之が酒なのかと味も分らずに飲んだ。この後もまた胸が悪くなって吐いた。後で判ったのだが、飲んだのは清酒ではなく焼酎だった。
 大学時代は殆ど飲むことも無く過ごして、沼田高校に奉職してから、いい相棒が出来、また同僚に酒飲みが結構いて、夜な夜な町に出て飲む機会が増えた。しかし、一定の量を飲むと後はもっぱら濃いお茶を貰ってみんなの付き合いをしていた。それでも沼田ではよくのみに出かけたものだった。しかしあまり鍛えられてはいなかった。
 美唄では、宴会の付き合いくらいで飲みに出かけるということは、めったに無かった。
そして、札幌に来たのだが、学校の宴会で飲んで、二次会に連れられていってもお茶ばかり飲んでいることが多かったし、時には二次会の会場に着くなり吐いてしまうことも何度かあった。それでも懲りずに飲んだのだから凄い。自分で凄いといっているのだから変な話だ。
 ところが、此処で仲間になったのがいい相棒で、手稲に初め居を構えたF氏は付き合いのいい、親分膚の人で、近くのスナツクが気にいって、そこへ行くため誘いがかかる。もう一人の仲間T氏はものすごく酒の強い人で、家は手稲でないのだが、手稲に来て3人で飲むことが多くなった。そのうちに、いつの間にか私も酒が強くなった。直ぐ真っ赤になるのだが最後まで付き合えるようになり、一晩に3軒くらいのハシゴ酒はあたりまえになつてしまった。
 酒を飲む楽しさを知ったのは50を過ぎてからだった。なんだかんだと口実を作ってよく飲んだものです。退職するまで、一週間に2回くらいは飲みに出ていた。しかし現役を終わると飲みに出る口実もなく、一人でのハシゴも面白くなくいつの間にか、飲みに出る機会が殆ど無くなってしまった。そして、現役の時、スナックが開くまでの時間つぶしに寄っていた居酒屋「いの平」さんだけ
が、私の行きつけになってしまつた。
 何でもそうなのですね、鍛えれば強くなる。そして、上手になる。酒は飲み上手と言えばいいのか、楽しむのみ方が出来るようになる。
 確かに強くなったが、歳は争えない。あまり深酒をすると二日酔いどころか三日酔いになるのでこの頃は気をつけている。
 
コメント
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