手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

「花林」 短歌の会に3年入っていました

2005-04-22 21:38:15 | 随想
 日本詩吟学院の山地先生の記念吟詠会に招待され、そこで奥さんから短歌の会に入会を勧められた。その会が「花林」で、山地先生ご夫婦が主宰して、北海道新聞の短歌選者だった山名康郎先生のご指導を受ける、初心者の集まりということでした。
 初めて出席した例会は、札幌市西区区民センターで開かれた時でした。国語の先生で、短歌も教えてというか、教材で扱っていて、現代短歌は現代仮名遣いなのだろうと思って出かけたら、何と歴史的仮名遣いなのです。そして、定形を基本としているのにも驚きました。皆様、まさに初心者(私をふくめ)それが、いろいろ話し合い、最後に先生がまとめてくれたときには、なんとも立派な短歌になっているではないですか。
 機関紙「花林」が、初めは年4回の発行だったが、隔月の発行となり、そのつど10首提出しなければならない。初めの頃は、結構張り切って投稿していたのだけれど、3年で限界を感じて止めさせていただいた。普通の方が、当たり前のことを、何の飾り気もなく歌にしている。なのに、私は歌う材料に困るのです。要するに、ものを見、それに感動する感受性が極めて低いのだと自覚しました。
 入って1年ほどした時、「花林」の全道大会が、山地さんのご兄弟が経営されているホテルで開催された。200人ほどの大会となったのですが、会を二つに分けてそれぞれに司会者(披講者)が決められた。その一人になって欲しいと頼まれ、この披講という言葉さえ知らない私でした。困辞したのですが、とうとう押し付けられ、やったのですが、丁度時間内に終了させることが出来、さすがと褒められ、一寸気をよくしたものでいした。それなのに、それなのに、2日月に10首の短歌を作ることが出来なくなったのです。
 私には「詩吟」があるのだ。それは、まあ言い訳です。敗北したまでのことです。
それでも、その時の雑誌は今も本棚に並べられていて、その中には、紛れも無い私のつたない短歌が印刷されているのです。
コメント
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