佐藤悦章(よしあき)さん、通称「よしさん」、「いの平」の常連中の常連で私は10年くらい付き合ってきた。
彼との出会いは、勿論「いの平」で、10年ほど前に一人で久しぶりに「いの平」に行き、酎杯を傾けながら隣の会話を聞いていた。稲苑大学に行っている人のようで、その話の中に「若林」という名前が出てくるのです。この年私は稲苑大学に願書を出し、その後、同じ町内会で会長だった若林さんに、一緒に行かないかと誘った。その結果、若林さんは合格したのですが、声を掛けてあげた私が抽選漏れで行けなかったのです。どうもその若林さんが話題に出ているみたいなので、話の途中で、「その若林さんは、第四町内会の会長をしている方でないですか」というと、「そうです」と応えてくれたのが悦さんだったのです。
なんと、若林さんと悦さんは樺太で同じ官舎に住んでいて、50年ぶりの再会が、稲苑大学でなされたというのだ。私と若林さんの関係も判り、3人で改めて一杯やろういうところから付き合いが始まった。
いろいろな思い出がある。そんな中で、一昨年だったでしょうか、悦さんが私に読んで欲しいと、今までに書いていた原稿を下さった。彼はなかなかの知識人で、私も時々たじろがされることがあった。私がブログを続けて書いていることが話題になったりすることもあり、私に見てほしかったのでしょう。なかなか立派な文章で、そのまま私のところへ置いておくのもどうかと思い、PCで印刷し一冊にまとめてお上げした事もある。あれは、彼の自分史になったはずだ。
5年ほど前に、私が象堂流から脱会することで悩んでいたとき、「ルビコンを渡れ」と励ましてくれたのも彼だった。楽しい酒を飲む人で、カラオケも上手、特にムード歌謡が得意で楽しませてもらったものだった。
この一年くらい、私も多忙で「いの平」に行けず、なかなか会えないでいました。以前から標津の方の弟さんの家に世話になることになるといっていて、それが今年の12月ということだった。一週間ほど前に「いの平」に行くことに成り、家を出かける前に、悦さんに電話を入れてみた。実は一月ほど前に電話番号を教えてもらったばかりなのです。だが電話を入れることもなかったのです。電話の呼び出しはかかるけれど本人が出ない、「いの平」で会えるかと思っていたけれど、来ていない。小野ママに尋ねたら「私も心配しているの。実は先月の末に、一度標津に行ってくるといっていて、出かけたはずなのだけれど、それから音信がない」という話だった。向こうで具合悪くなったりしているのじゃないと話していた。
そんなこともあり、昨日昼頃、戻っていれば、標津に行く日を確かめ、その前に一度送別会をしてあげようと思って電話を入れた。すると出ました。「よしさんかい」といったら「違います」という。「佐藤悦章さんのお宅でないのですか」と言うと「そうです」という。「よしさんはいないのですか」というと、暫く途切れその後「私は弟なんです」といい、そして「兄は死にました」という。「え!!」というと、「2日(昨日なのです)に、死にました。転んで脳挫傷を起こして入院していたのだけれど、2日に亡くなりました」という。2日というのが、なんとも何日か前えのようにしか思えなくて、話していたのだけれど、丁度なくなった日に電話を入れたのだ。多分、弟さんたちは、兄の部屋の片付けに来ていたのだと思います。
悦さんとの中を取り持つた若林さんが、亡くなったのが7月頃だったでしょうか、まるで後を追うように悦さんも逝ってしまった。
「いの平」では、いい友達に出会ってきたけれど、次々にいなくなる。仕方がないことだけれど、寂しい。悦章さん、お冥福を祈ります。