私が手稲文化協会に加盟したのはまだ現役で手稲に詩吟の教室を立ち上げてすぐだつた。手稲文化協会については秋に文化祭を開催していることだけしかわからなかった。自分の詩吟の教室ができたので、文化祭に出演させるために加盟しました。
平成11年にたまたま文化協会会計委員を委嘱され、この年が文化協会創立50周年で、記念誌の編集を依頼され、何とかまとめたけれど、とても不自然な文化協会の姿に驚いた。手稲区が独立して10年になり、区民センターもでき、文化施設は充実してきているけれど、文化協会の活動はその存在すらよくわからなくなってきていた。役員となり文化祭の運営にかかわるようになってきたが、文化協会の文化祭とは言えないのです。コミュニティセンタ―運営委員会と共催の形で開催されていて、文化祭当日になったら私の知らない方たちが大手を振って指揮しいて、文化協会の存在はただ所属サークルが出演するだけ。しかも演芸は観客もまばら、文化協会の存続すら危ぶまれる状況だった。平成4年には事務局長を担当することになりました。ここで、文化祭は文化協会゛やるので、コミュニティセンターの運営委員の協力はいらないということを申し入れ、文化協会が名実共に文化祭を仕切ることにしました。更に、コミュニティセンターは立地条件が悪いので、区民センタ―で文化祭を開催できるようにと考え運動に乗り出しました。
その第一弾として、チャリティ伝統芸能祭を開催する計画を立て、区長交渉をして区民センターの使用料免除を承認して頂き、開催し大成功を収めました。そしてチャリティ収益から20万円ほど有珠山の災害義援金として送ることができました。これをきっかけにして文化祭の区民センター開催を実現するべく地域振興課とも話し合い、ついに、文化協会独自の文化祭を区民センターで開催出来るところまでこぎつけました。区民センター使用料減免で1年開催したところで、指定管理者制度の問題が出てきて、区民センターの使用料減免がむつかしくなってきました。それで、使用料の助成を求めてかなり激しい手稲区との交渉をしました。指定管理者制度の実施を一年遅らせ、次の年は半額文化協会負担ということでしたが実質文化協会負担での開催となりました。更に文化協会の活動の幅をひろげてきました。チャリティ伝統芸能祭は、発展的に解消し、チャリティ舞踊の集いと年忘れ芸能大会を立ち上げ、さらにカラオケフェスティバルを立ち上げてきました。
その過程の中で文化祭のありかたについて、区に一定の助成を申し込みつつも、指定管理者制度が確立し、実質文化祭の費用は文化協会が負担しなければならないことが確実になってきました。その時、文化協会としての対応策も見えてきていました。三回開催されるチャリティ収益を、文化祭開催資金とすればもチャリティはむつかしくても、文化祭を開催するめどは立っていたのです。
その時に、地域振興課が仲立ちとなって区民センター文化祭と共催することにしてほしいという申し入れがあった。文化協会独自で開催するめどが立っているので、断ったのですが、当時の区民センタ―運営委員長の氏家氏と話し合う設定がされ、その席で氏家さんから区長からも話があった。小樽札幌間の文化活動の拠点として、文化活動を推進する核となってほしい。お互いそれを目指して頑張りましょう。文化祭の費用については一切面倒をかけないと断言されたのです。そして今に至っています。
あの時の氏家さんとの話し合いは、ほとんど反故になっている。確かに文化祭は共催として、文化協会は費用面の負担はかなり軽いところで終わってはいます。しかし、文化協会を盛り上げる。いわば文化団体はみんな文化協会に加盟する。そんな方向で例えば文化祭の一般参加の会には是非文化協会に加盟してほしいというような勧め方のできる関係であれば理想的なのだけれど、その関係は全くできていない。
手稲区の文化団体を網羅出来る方向性を志向する幹部の発想がなければならない。手稲区と協議して文化活動表彰についても、文化協会に所属する団体、個人の表彰をしてもらうことも大切なことかもしれない。やはり、そんな発展的な思考を出来る会長がほしい。
平成11年にたまたま文化協会会計委員を委嘱され、この年が文化協会創立50周年で、記念誌の編集を依頼され、何とかまとめたけれど、とても不自然な文化協会の姿に驚いた。手稲区が独立して10年になり、区民センターもでき、文化施設は充実してきているけれど、文化協会の活動はその存在すらよくわからなくなってきていた。役員となり文化祭の運営にかかわるようになってきたが、文化協会の文化祭とは言えないのです。コミュニティセンタ―運営委員会と共催の形で開催されていて、文化祭当日になったら私の知らない方たちが大手を振って指揮しいて、文化協会の存在はただ所属サークルが出演するだけ。しかも演芸は観客もまばら、文化協会の存続すら危ぶまれる状況だった。平成4年には事務局長を担当することになりました。ここで、文化祭は文化協会゛やるので、コミュニティセンターの運営委員の協力はいらないということを申し入れ、文化協会が名実共に文化祭を仕切ることにしました。更に、コミュニティセンターは立地条件が悪いので、区民センタ―で文化祭を開催できるようにと考え運動に乗り出しました。
その第一弾として、チャリティ伝統芸能祭を開催する計画を立て、区長交渉をして区民センターの使用料免除を承認して頂き、開催し大成功を収めました。そしてチャリティ収益から20万円ほど有珠山の災害義援金として送ることができました。これをきっかけにして文化祭の区民センター開催を実現するべく地域振興課とも話し合い、ついに、文化協会独自の文化祭を区民センターで開催出来るところまでこぎつけました。区民センター使用料減免で1年開催したところで、指定管理者制度の問題が出てきて、区民センターの使用料減免がむつかしくなってきました。それで、使用料の助成を求めてかなり激しい手稲区との交渉をしました。指定管理者制度の実施を一年遅らせ、次の年は半額文化協会負担ということでしたが実質文化協会負担での開催となりました。更に文化協会の活動の幅をひろげてきました。チャリティ伝統芸能祭は、発展的に解消し、チャリティ舞踊の集いと年忘れ芸能大会を立ち上げ、さらにカラオケフェスティバルを立ち上げてきました。
その過程の中で文化祭のありかたについて、区に一定の助成を申し込みつつも、指定管理者制度が確立し、実質文化祭の費用は文化協会が負担しなければならないことが確実になってきました。その時、文化協会としての対応策も見えてきていました。三回開催されるチャリティ収益を、文化祭開催資金とすればもチャリティはむつかしくても、文化祭を開催するめどは立っていたのです。
その時に、地域振興課が仲立ちとなって区民センター文化祭と共催することにしてほしいという申し入れがあった。文化協会独自で開催するめどが立っているので、断ったのですが、当時の区民センタ―運営委員長の氏家氏と話し合う設定がされ、その席で氏家さんから区長からも話があった。小樽札幌間の文化活動の拠点として、文化活動を推進する核となってほしい。お互いそれを目指して頑張りましょう。文化祭の費用については一切面倒をかけないと断言されたのです。そして今に至っています。
あの時の氏家さんとの話し合いは、ほとんど反故になっている。確かに文化祭は共催として、文化協会は費用面の負担はかなり軽いところで終わってはいます。しかし、文化協会を盛り上げる。いわば文化団体はみんな文化協会に加盟する。そんな方向で例えば文化祭の一般参加の会には是非文化協会に加盟してほしいというような勧め方のできる関係であれば理想的なのだけれど、その関係は全くできていない。
手稲区の文化団体を網羅出来る方向性を志向する幹部の発想がなければならない。手稲区と協議して文化活動表彰についても、文化協会に所属する団体、個人の表彰をしてもらうことも大切なことかもしれない。やはり、そんな発展的な思考を出来る会長がほしい。