どこかで書いたことがあるのだが、父は私が小学校に入学した時に、上川村字東雲小学校の校長になった。当時がどんな状況だか分らないが、34歳くらいで校長になったのだからなかなかだったのだと思う。
とても話が上手だった。学校での人達も沢山集まって式典をする時、またの青年が兵隊に行くとき、校庭で激励会をする、また、校長は青年学校のこうちょうでもあるので、青年団で挨拶するとか随分演説をする機会があって、聞いたものだが、子供心にも上手だと思った。また、書も達者で、賞状を筆で書いていたが、見事だった。
煙草飲みだったが、凄くえらいと思ったのは人に煙草をせびることを一切しない人だった。校長先生は、とても偉くての冠婚葬祭、出征兵士の送別会には必ず呼ばれる。そして煙草が切れると帰ってくる人だった。また歌が好きで上手だった。の人が学校の集会の後とか、正月などには沢山やってきて、我が家で宴会をやるのだがそんな中で酔って歌を歌うのをよく聞いたがうまかった。札幌師範の本科教員養成所を出ていて、師範学校の卒業生ではないのだが、オルガンも上手だったし、私が壊したそうだけれどバイオリンを弾いていたのだそうです。
また、麻雀が好きで、東雲では、近くに発電所が有り、そこの所員が、言えばのインテリーで麻雀をやる人がいて、よく出かけていた。私が永山農業に通うようになった頃、麻雀は大学卒業するまで覚えるなと言っていた。しかし、第三師範(旭川師範)の本科に入ったときに覚えてしまい、美瑛の田舎の学校に転任していた頃は、先生方と父と一緒によく麻雀をやったものだ。
あの時代、父は結構洒落ていたのだと思う。そんな父の一面は受けていると思うが、書は駄目、話は下手、歌も下手、何でこんなに似ていないのかと今でも残念に思う。