手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

福祉センター詩吟 今日も20名参加

2015-07-21 18:43:43 | 詩吟関係
 今月最後のセンターの詩吟。今日も20名。今月は3回とも20名オーバーでした。人数が多くなると話す時間が制限されるのがつらい。

 今日は佐々木岳甫作「石狩川」と「大雪山」の二題をやりました。

 「長江嶽(やま)を截(た)って・・・・」で始まる。あの層雲峡の大函、小函の双崖が彷彿としてくる。「激となり潭となって・・・」では神居古潭の姿が浮かんでくる「清濁併せ呑む三百里」は、素晴らしい。大雪山を源流として上川盆地を貫き、神居古潭で盆地の壁を打ち破り空知・石狩と流れ下る間に多くの川を飲み込んで流れ下る。最近は清濁の感じが薄れているけれど、かつて炭鉱の隆盛期には、炭鉱の粉じんで真っ黒になった川をいくつも飲み込んできていた。旭川ではパルプ工場の廃液をも飲み込んでいた。北海道の長い歴史を映して、悠々と何事もなかったように流れ下る石狩川を「時時浼(ながれ)に泛べて水悠悠」と締めるのです。

 素晴らしい詩です。このような詩は覚えようとしなくてもすぐ頭に入ってくる。

 「大雪山」は、大雪山の雄姿を読んだのではなく、大雪山のちょっとした紹介程度で、感動には少し遠いところがある。みんなに大雪山に登ったことのある人と質問したら半分以上の人が手を挙げた。縦走したかどうかはわからないけれど、勇駒別からゴンドラで旭岳のところまでならだれでも行ける。それでも大雪に登ったといえるかも知れない。佐々木岳甫の北海道を詠んだ詩には素晴らしいものが沢山ある。この後も少し続けていくつか取り上げてみます。
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歴史・・・その裏表

2015-07-20 19:13:15 | 無題
  日本の歴史を私たちは学校教育の中で教わり、それをそのまま真実として受け止めてきている。でも教科書に書ききれない多くの事実が裏にあることを知らなければならない。しかし、それを知るには大変な努力が必要のようだ。

 今連続テレビドラマ「花燃ゆ」を毎回みるように努力している。学校で習ったことは誠に薄っぺらなことだったように感じる。同時にドラマでもこのあたりもう少し突っ込んでほしかったと思うこともある。

 禁門の変で朝敵となった長州、長州藩内の動揺、第一次長州征伐軍の編成に当たっての薩摩の動き、この時奄美大島から西郷が呼ばれ、征討軍の中心に座ることになって、西郷の意思が長州を恭順させることで終わらせたはずだけれど、ほんの一場面西郷が恭順の提案をしただけしか放映されなかった。それはそれとして、この後薩長同盟が組まれ、第二次長州征伐軍を奇兵隊が打ち破って行くのだけれど、坂本龍馬が薩長を結びつける手段に西欧の新式武器の大量購入の手だてを整えたことが挙げられている。それにしても、あれだけの大量の新式武器を購入することが良くできたものだと思わざるをえない。大政奉還から戊辰戦争へとあんなにうまく事が運べたのは何だったのだろう。

 錦の御旗が掲げられると大阪にいた将軍が夜逃げのようにして江戸に戻り、江戸城は無血陥落となった。あんまり出来すぎた話のようにも思える。又、明治新政府の中で西郷が征韓論に敗れて故郷に帰ったといわれるけれど、この征韓論の中身もどうも教科書とは違うようだ。

 
 日本はこの後、日清戦争、日露戦争へと突っ走るのだけれど、維新間もない日本によくもこんな戦争をする財力があったものだと思う。当時の帝政ロシヤのアジヤ侵攻を恐れている外国の資本が日本を戦争へと巧妙に推し進めたのかもしれない。その流れが日本の破滅、第二次世界大戦への道のりだったのかもしれない。

 随分高い犠牲を払って、今の日本を確立したのだ。高い犠牲の上で獲得したのが憲法9条の不戦の誓いだった。

 明治維新から日清、日露の戦い、第一次世界大戦、日中戦争へと、突き動かされ、図に乗った日本を今度は破滅させるために戦争に突っ込まざるを得ない状況を作り上げた何かかがあったのではないだろうか。

 今、集団自衛権の論争が進んでいる。日本が犠牲の果てに打ち立てた不戦の城が揺らぎ始めている。ゆるがせるような外圧がかかっている。この外圧に乗っかってはいけない。今度戦争に巻き込まれたら、日本はなくなるでしょう。今の時代そんなことは起きないといえるだろうか。中東での戦いの連続は、武器を供給する国があるから戦いは続く。武器を供給する側の思惑は何なのか。

 シリアの反政府運動が成功しなかったのは、後ろにロシヤいたからでしょう。ウクライナのロシヤのやり方は形をかえた侵略戦争でしょう。そんなロシヤが北方四島返還をするわけがないし、二島もこのまま取り上げていくつもりだと思う。中国は反日運動を強化し、その中でじわじわと手を伸ばしてくる恐ろしさを感じる。日本が憲法で戦争放棄したのに、まだ帝国主義国家ででもあるかのような教育をし、反日行動を強めている感じがする。</font>
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学ぶこと・・・・教えを戴く・・・・自学自習・・・

2015-07-19 19:04:36 | 随想
  私たちは学びながら生きている。「学ぶ」には①教わって覚える ②勉強して覚える③経験して覚える④まねをして覚える、といったことがある。
 特に有効なのは、師につき教えを受けて学ぶことだ。学校教育、またはその道の先達に教えを受けることが特に大切なことは言うまでもない。自分で勉強して覚える自学自習は大変時間もかかるし、身に着けたものに対して自信を持てないこともある。

 私の人生を振り返って、自分に本当の意味で自信を持ちきれないのは、「学ぶ」ことをしていなかったからだとと思う。大学は出ているけれど学んだといえるような学問をしていなかった。良くそれで現役の職場で脱落せずにこれたものだと自分でも思う。その場しのぎの自学自習で潜り抜けてきたといえそうだ。

 今、詩吟の先生としてそれなりの活躍をしている。しかし、ここでも自信を持ちきれていない。宗家について20年も勉強したけれど、その宗家の吟に不信感があり、学びきれないまま別れた。結局、基本的なところではその教えを受け継いでいるけれど、それをもとに新しいものを自分で取り入れた私流の吟法を進めている。それだけに確固とした自信を持てない。

 今カラオケをかなり楽しんでいるけれど、音楽に対する教養のなさが、随所に顕れとても人並み以上には行くことができないのだと自覚している。

 本当に情けない自分を見つめながら、それでも、ここまで特別困ることもなく、それなりに認められて来ているのは不思議でもある。そんなに処世術にたけているわけでない。いわば、自分の足りなさを自分で認め、必要以上に人に認めてもらおうなどという考えを持たなかつたことが、馬脚を現さないことにつながり今があるのかと思ったりする。</font>
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やらなくなった趣味の数

2015-07-18 21:07:12 | 趣味
 私は多趣味だった。だったのです。今やっている趣味は詩吟、カラオケ、パークゴルフ、テレビでの野球観戦くらいになっているように思う。

 年齢が85歳ともなれば当然のことだけれど、運動はパークゴルフがやっとというありさま。野球もやったしスキーは一級を持っていた。テニスもやった。バスケットもやった。どれも今は過去のもの。麻雀はかなりみんなに恐れられるくらいだった。囲碁は一時2段でも大丈夫といわれたことがある。将棋は下手だけれど打てないことはない。魚釣りはもっぱら渓流釣りだった。ヤマメ釣りでは名人といわれたものだった。読書は現役時代までで、退職後は活字を追うのが辛くなってやめた。ゆっくり読もうと買った書籍はまだ目を通さないまま書棚の肥やしになっている。

 これらに絡む思い出は多い。この歳まで生きてきたら誰もが沢山の趣味にかかわる思い出をお持ちなのでしょうし、今もそのどれかの趣味を大事に楽しんていられるのでしょう。得意げに麻雀の話をしているのを聞きながら、私が本気でやったらどんな相手になるのだろうなどと思ったりするけれど今はやる気はない。まだ麻雀の牌が投げられずにある。碁盤のいいものがあったけれどこれは呉れてあげた。使い込んヤマメ釣りの竿、二本あるのだけれど、これももう使うことはないのでしょう。

 思い起こせば、楽しい場面が浮かんでくる。ふと今麻雀の仲間を思い出した。何とほとんどか他界している。懐かしい顔、声が浮かんでくる。
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蛙の鳴き声を忘れた!!

2015-07-17 19:55:43 | 身辺雑記
 生まれ育ったのは上川の水田地帯だった。現職も沼田・美唄と蛙の啼き声を何時でも聞けるところだった。手稲に来てから全くカエルの鳴き声を聞いていない。手稲の地名に稲穂とか稲積とかと稲のつくとこがあるのだから、水田は昔は有ったのでしょうが、私の記憶では手稲に家を建てたころは、今の渓仁会病院のあたりにわずかに水田があった。しかし、畑はあっても水田がなかったように思う。特に鉄北地区は泥炭地だったから水田には向いていなかったのかもしれません。

 美唄では住宅のすぐ前が水田で、蛙の大合唱を毎年聞いていた。思い出すととても懐かしいのだ。そして、手稲は最高なんてブログを書いていながら、小鳥のさえずりも聞けなければキリキリスの鳴き声も聞くことのできない、手稲は町なのか田舎なのかもわからない不思議な土地のように思える。

 パークゴルフに出かけて鶯の鳴き声とかカッコウの鳴き声を聞くととても楽しく感じられる。

 車の騒音もない、静かにな住宅地、平和な土地だけれど、何か物足りない。

 
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私の町内会

2015-07-16 19:18:17 | 身辺雑記
 手稲に来て37年くらいたつのでしょうか。手稲にくるまでは町内会という付き合いはなかった。最初に勤めた沼田高校の時は、結婚して公営住宅に入ったけれど、同じ公営住宅に仲間が何軒も入っていて、いわば職員住宅にいるようなもので町内会としての付き合いはなかった。次に勤めたのが美唄東高校、ここでは職員住宅で15年過ごしたけれどやはり町内会との付き合いはなかった。札幌西陵高校に転勤となり、前年に建てていた現在の住宅に住むようになり初めて町内会の付き合いをするようになった。

 町内会に加盟して間もなく町内会の副会長を命ぜられ、何をしてよいのかもわからず前の年班長で見てきたやり方を全く踏襲する形でとにかく一年頑張った。そしてその一年で解放されたと思ったら、総会の席で突然、今年の副会長は村川さんにやってもらいますと町内会の大御所佐々木作松さんに指名された。困ったけれど仕方なく副会長をさせていただいた。しかし、何かいい仕事をしたかというと全く何もでき無かった。ただ、宴会の時は楽しく飲んで、二次会に我が家に何人も引き連れてきて盛り上がった記憶だけはある。

 それから数年後突然若林さん(その時若林さんを知らなかった)が訪ねてきて「今度町内会長をやることになったので、ついては村川さんに副会長をお願いしたい」というのです。その時の若林さん好感を持てる人に思えたので引き受けました。それから確か6年くらい副会長をして若林会長を補佐してきました。このころには町内会にも慣れてきていて、いろいろと町内会を盛り上げる努力をしました。いい仲間もいて、仕事が楽しかった。

 いろいろな行事もとても活気のあるものに作り上げた。あの当時は楽しく仕事ができた。

 の数年後、記念行事の実行委員として仕事をしている中で、ある方とトラブッテそれから町内会の活動にはほとんど顔を出さなくなった。間もなく老人クラブが立ち上がった。しかし、入る気持ちが起きませんでした。特に町内会から助成を受けてただ遊ぶだけの老人クラブに見えたりしました。その数年後老人クラブが健幸クラブと名前を改めて、年会費を出し、公園の清掃活動などもやるようになっのを見て入会させていただきした。そして健幸くらぶの中に詩吟の会を立ち上げ現在まだ活動をつづけています。  
 昨年あたりからちょっと気がかりになってきています。活動に活気がないのです。まず新しい会員が入ってこない。もう少しサークル活動がもり上がるといいのですが詩吟の会はとてもばらしい活動をしていますが、それ以外では停滞感が隠せません。これはどこの老人クラブも同じなのかもしれませんがもう少し魅力のある会に育てなければならないのだと思います。何か策があるかといわれたらちょっと困るのですが、町内会とも連携しての活動を作り上げることが必要かと思ったりします。

 先日、連町のパークゴルフ大会出場希望者を募集するという案内が来ていました。とても不思議な気がしました。今パークゴルフはブームみたいです。今までは大会を開催して選手の選考をしていたのですが、その大会もなくなったということみたいです。やはりサークル活動を立ち上げたいものです。そのためには指導者が必要です。町内会にも結構指導者をやれる人がいらっしゃるのではと思ったりします。そんな人材を発掘していく必要もあるのでしょう。

 町内会としての行政的、福祉的な活動は当然充実しなければならないけれど、町内会員としての連帯を強める活動の創造が必要だと思う。そのためには町内会役員の率先的リーダーシップがなくちゃならないと思うのです。
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初めて植えたズッキーニ 葉っぱだけは大きくなったものの実が育たない

2015-07-15 19:50:57 | 無題
 今年初めてズッキーニを二株植えた。青と黄色です。大きくなって花が咲き実も付くのですが、着いた実が成長しないで先の方から腐れてゆくのです。それで、薬でもかければよいのかと思って農協に行き聞いてみました。すると花は咲いても蜂などがいなくて受粉できないからだといわれた。なるほど今年は花畑にもさっぱり蜂が飛んでいない。それなら人工授粉させればいいのかと思ったけれど、どうやら花が咲いている時間はそんなに長くないみたいで、私が行ってみる時はほとんど花がしぼんでいて受粉させるためには無理に花を開くしない。そうすることが良いことかどうかわからない。もう少し温かくなったら虫たちの活動も盛んになるでしょうから、そのうちにまともなものが取れるのかもしれません。見守って行きます。

 キュウリは今年接ぎ木の苗3本を植えた。ネットに這わせました。ネットの上まで伸びて、節々に今実がついてます。もう少し大きくしてからとることにしますが、いっぺんにとれる量が多すぎそうです。これから伸びる蔓をどうすか困っています。ネットを屋根のようにて前に伸ばし、上を這わせるようにしたらどうかと考えています。面倒なのですがそれしか方法はないのでしょう

 今年どういうわけか春菊が生えない。土のかけ方が悪かったのでしょうか。二回目に撒いたのはもう芽生えていいはずなのにまだ生えて来ない。

 秋大根は芽を出しました。間引きをしてやらなければなりません。今年も20本は収穫できると思います。インゲンは来週あたりから取れるようになりそうです。

 狭い軒下畑だけど結構楽しめます。
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福祉センター詩吟  今日は21名参加でした

2015-07-14 18:59:46 | 詩吟関係
  朝から暑い一日でした。昨日の天気予報では雨だったのだけれど、雨は気配すらなかった。先週が久しぶりの20名オーバーだったので今日もと期待していったところ、21名でした。

 会場はクーラーが入りますので、家にいるより過ごしやすい。先週初めて来て前半で帰った方で今週来ると約束していた方が来ていました。初めて詩吟に挑戦する方ですが滑川さんのサポートを受けて今日は頑張ってゆきました。もう一人先週いらっしゃって、私に挨拶していった方、今日は一人で堂々と吟じました。

 前半「常盤孤を抱くの図に題す 梁川星厳」後半「石狩川 岳甫」をやりました。

 中休みの時、NAさんが私のとこへ来て、30周年記念大会で私が謝吟で「海に浮かぶ」を選んだことに、素晴らしい選び方だといってほめてくれました。自分で調べてみたようです。私としては、かなり考えて選んだ吟題でした。そこをわかってくれる人が何人いるかわからないし、ほとんど関心がなかったのではと思ったりしていましたが、一人こんな人がいてくれたこととてもうれしい。85歳で30周年記念大会を終える私にはぴったりだと思っていたのです。
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「うみ族」か「やま族」か・・・私は「やま族」でした

2015-07-13 19:17:16 | 無題
 こんな話を聞く。山を好む人はまじめだというのだ。

 私が真面目ということは言えないように思うけれど、私は海にはゆきたいと思わなかった。それかといって多くの山を登ったのかといえば、大雪山を数回登ったくらいなのだ。昭和19年に初めて登りそれから5年くらい毎年登った記憶が残っている。

 戦後のなにも無いころ、今のような山登りの装備もないまま、ほとんど普段着にちょっと重ね着を持つくらいで出かけたものだった。ルートは愛山渓から層雲峡に縦断する二泊三日の登山でした。縦断する間ですれ違う人は一組か二組で、この出会いがたまらなくうれしく、どちらからともなくご苦労さんと声をかけあう。それが何とも言えないくらい心地よく感じられたものでした。

 その登山の仲間だった友達はみんな私よりはるかにまじめな方たちでした。

 私はあまり社交性がないので、海などで仲間と群れになってはしゃぐことができず、黙々とひたすら歩く山の方が向いていたのかもしれません。真面目というより、群れることの好きでない、引っ込み思案な性格だっただけかもしれません。

 海に行く機会はいくらもありましたが、海でパーティなんていう考えは全く持ちませんでした。

 家族とも、現役時代、子供が高校生くらいまでは、毎年のようにキャンプに出かけましたが、海水浴には行きませんでした。当時の三角テントがまだ捨てないでありますが、もう時代遅れ、捨てなくちゃなりません。

 すべて今は思い出の彼方です。こんなことを書くことは、老化現象なのでしょう。
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暑い日曜日でした  大相撲名古屋場所も始まった

2015-07-12 20:53:13 | 身辺雑記
 朝から真夏の暑さ、夏ですから当然ですが この夏最高の暑さ。

 時期を見計らっていた夕張メロン、本州へ送ることにしました。昨年はイオンから送ったのでしたが、今年は別の店から送ることにしました。メロンも今は道内各地で栽培されていて、甘さならみんな同じみたいなのですが、やはり夕張の香りが良くてほかの追従を許さないみたいです。値段も全く違います。

 とにかく気になっていたことを一つ片付けました。

 午後何をしようかと迷ったいたら、家内から「カラオケに行くのならお店で食事して!」声がかかった。それでカラオケに出かける決断をして、出かけました。「鷗」に行こうかと、西友に車を止めて店に入ったら10名ほどいたので、やめて「カナ」に久しぶりに行きました。ここも10数名の先客がいましたがカウンターの席が一つ空いていたので遊んできました。一時間に一曲です。結局3曲歌っだけで帰ることになりました。

 カラオケの店、私は四軒くらいを回っています。一番混むのが「カナ」です。食事、その他のおもてなしもよい。今日は蕎麦をいただきましたが、蕎麦に枝豆と稲荷ずし一個、ゆで卵一個が付きました。ほかにおつまみのお菓子も出て、さらに途中バナナ半分とロールケーキ一個が出ました。もちろんコーヒーは飲み放題。お客さんには歌の上手な方が多く、聞いていても楽しいし、また歌い甲斐もあります。私の最後に歌った「飛騨の龍」はとても好評だったように思います。この店でこの歌を歌った人がまだいないということでした。

 帰宅して相撲を見ました。名古屋場所、相撲も楽しみなのですが、画面で毎年拝見できる女性三人いるのです。まだ連日来ている方がいるのでしょうが、三人だけ私は楽しみに見ています。一番先に気が付いた方は、毎日和服を変えてきます。どんな着物を着てくるのかも楽しみになります。はじめのころはその近辺にいたのですが、今は指定席になっているみたいです。ほかのお二人はほぼそのあたりに居るという状況で指定席にまではなっていない。男性にも毎日来ている方がいるのでしょうが全く気か付きません。

 遠藤の足どうなのか心配していましたが、サホーターもついていないし、今日の取り口は今までで最高みたいだった。サホーターとかテーピングなしの力士は数が少ない。最近の相撲は激しくなっていて、怪我はいつ起きても不思議でない状況なのだ。あの元気だった大砂嵐も今日は満身創痍の状態で出ていた。
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