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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

Hey Girl!

2009-03-12 | 舞台芸術
 3月10日、ロメオ・カステルッチ演出の「Hey Girl!」をにしすがも創造舎で観た。
 本作は、2006年11月にパリのフェスティバル・ドートンヌの招待作品として、国立オデオン劇場で初演された作品とのこと。
 少女性、女性性を大きな主題として、さまざまなイメージが音楽・美術・映像などを駆使しながら繰り広げられる。

 おそらく本作への評価も好き嫌いも大きく分かれるのではないだろうか。
 
 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン)との言葉に従い、今日は記録のみにとどめることにする。

 さて、女性を描くといえば映画監督・溝口健二である。
 先月、日本経済新聞の日曜の名物特集「美の美」では、4週間にわたって溝口健二を特集していた。以下、部分的に引用。

 「溝口の映画には、各瞬間、各ショットに詩があらわれる」とゴダールが賞賛したように、彼はフランスのヌーベルバーグに多大な影響を与えた。
 「修道女」(1966年)の監督ジャック・リベットは書いている。
 「溝口を理解するために学ぶべきなのは、日本語ではなく、この言語、すなわち演出という言語だ。それは共通言語だが、溝口においては、その純粋さはいままで西洋の映画が例外的にしか到達できなかったレベルにまで高められている」(「カイエ・デュ・シネマ」81号)
 ゴダールは答える。「(溝口のワンシーン・ワンショットの手法は)人生を一瞬のまばたきの間にとらえ、生きようとするどん欲な、狂おしい情熱のようなものを思わせる」(山田宏一「友よ映画よ」)
 「ママと娼婦」(1973年)の監督ジャン・ユスターシュは「溝口を見て、俺の運命は決まった」と山田に告白した。「日本的な美が称えられたのではない。これこそは映画だ、俺もこんな映画を撮りたいと思わせた」と山田は語る。

 溝口は西洋の真似をしたのではない。日本独自のものを描き続けるなかで、世界の映画作家に通じる普遍性を獲得したのだ。それを可能にしたのが「演出」という共通言語である。

 映画と舞台芸術における演出の違いは何だろう。
 フレームの切り取り方、空間と時間の処理の違いはあるにしても、本質的に同じではないかと私は考えている。

 いま東京・池袋を中心に繰り広げられているフェスティバル/トーキョーの見どころはまさに舞台芸術における「演出」という共通言語=表現の多様性であろう。
 さまざまな作家がさまざまな手法で「世界=現実」と対峙し、切り取り、把握し、破壊し、再構築しながら、「リアル」を追及しようとしている。

 そこに私たちは何を見ることができるのだろう。