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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

世界言語

2009-03-18 | 言葉
 3月15日付の日本経済新聞の特集記事で、経済や文化のグローバル化、インターネットの普及を背景に世界の言語は英語の一人勝ちの様相であることを伝えている。
 だが、英語の圧倒的な広がりは、独自の民族言語と結びついた文化や歴史を揺るがす危うさもはらんでいると記事は伝えている。
 英語が世界共通語として隆盛を誇る一方、消滅の危機にある言語も数多いのである。

 2008年には米アラスカで「エヤク語」を話す最後の一人、マリー・スミス・ジョーンズ氏が死去。
 ユネスコによると1950年以降219言語が絶滅した。
 現在、世界中で使われている約6000の言語のうち、2498は消滅の危機にさらされているという。
 日本では、アイヌ語が消滅の危険度の分類で「極めて深刻」とされ、八丈島や南西諸島の言葉などが独立後として「危険」「極めて深刻」とされているそうである。

 私は迂闊にもこうした世界の言語状況にあまり関心がなかったのだが、こんなにも多くの言語が存在し、しかもその半数近くが消滅の危機にあるという事実は衝撃的である。

 こうした問題を扱った本として、最近では水村美苗氏の「日本語が滅びるとき―英語の世紀の中で」(筑摩書房)が大きな話題となったが、これに先立つ論考として、柄谷行人氏の「日本精神分析」(講談社学術文庫)所収の「言語と国家」が興味深い。
 これは2000年6月に柄谷氏が行った講演草稿に加筆したものであるが、まさに今日的な言語状況を読み解くのに明確な視点を与えてくれる。

 以下、部分を恣意的につなぎ合わせて引用。深謝。
 「・・・英語は、19世紀の大英帝国から20世紀のアメリカの世界支配を通して、かつてないようなリンガ・フランカ(世界語)になっている。
 1990年以後の新自由主義とか、資本主義のグローバリゼーションという事態も、言語面では英語がリンガ・フランカとなりつつあるということなのである。
 フランス国家は、フランス語が国際的にますます通用しなくなるという事実に対して必死に抵抗し、アメリカに対抗するものとしてヨーロッパ共同体を進めてきたけれども、そこには矛盾があって、共同体の共通語は逆に英語にならざるを得ないという事態を招いている。
 コンピュータ用語をはじめ、英語は各国語に浸透しており、それはますます強まるだろう。
 言語は、国家やネーションに関係なくあるものだが、文字言語となると、必ず、政治的な「価値」、つまり国家やネーションに関係するだけでなく、経済的な「価値」に関係してくる・・・」

 ここで考えたいのは、この英語の言語としての覇権と今般の経済危機との関係である。
 新自由主義や資本原理主義のシステム破綻という状況は、翻って言語の多様性が持つ有効性に新たな光を投げかけるのではないか、とも思えるのだがどうだろう。

 それにしても、その言語を話す最後の一人となったとき、私たちはどんな思いに捉われるだろうかと想像する。自分にしか理解できない言語での独り言、それは一体どんな夢を描き出すのか。

 と、こんなことを書いていたら、17日のTBSテレビ「NEWS23」で「どう守る 失われゆく故郷の言葉」を特集、沖縄の「うちなぁぐち」とフランスの「ブルトン語」を保存・伝承しようとする人々を取材していた。
 その当事者へのインタビュー、「どんな少数言語であれ、その言葉で夢を見、ものを創造する人がいる限り、守らなければならない」という言葉を私たちは十分に咀嚼しなければならないだろう。