seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

声紋都市

2009-03-22 | 演劇
 3月19日、東京芸術劇場小ホール1で松田正隆作・演出作品「声紋都市―父への手紙」を観た。製作:マレビトの会、共同製作・主催:フェスティバル/トーキョー。

 「95kgと97kgのあいだ」が戦中から戦後にかけて生まれ、70年安保闘争の渦中にあった世代と現代の若者世代との幻想と戦いの演劇であるとすれば、「声紋都市」は、おそらく大正末期に生まれ従軍した経験のある世代と、東京オリンピック前後に生まれ、あの戦争を逡巡なく侵略戦争であったと断じる世代との距離感そのものが主題の作品である、とは言えないだろうか。

 「父」なる存在は大きな謎として作者の前にあり、大いなる沈黙を保ったまま自らを語ろうとはしない。
 父は殺され、乗り越えられるべき存在なのだが、その本当の姿は見えないままであり、息子はその前でただ手紙を書くしかないのだろう。

 あからさまに語れば、すべてが瓦解しそうな関係性を危うく保ちながら父と息子は向かい合うしかないのだ。

 作者は舞台に映し出される映像と、多声を導入し、都市そのものが孕んだ歴史や土地の記憶が語りかける重層的な声によって構成されたともいえる舞台上の俳優の演技によって、痛々しくも韜晦に満ちた舞台を作り上げた。
 歴史のなかに埋もれていった様々な時間や多くの人々が個人史を語る声によって織り成される都市の姿がそこに浮かび上がる。

 観客はそれを凝視するしかない。

「95kgと97kgのあいだ」の重さ

2009-03-22 | 演劇
  3月18日、にしすがも創造舎にて「95kgと97kgのあいだ」を観た。作:清水邦夫、演出:蜷川幸雄、出演:さいたまゴールド・シアターほか。
 本作は、昨年6月、彩の国さいたま芸術劇場において、さいたまゴールド・シアターの第2回公演演目として上演された作品であり、劇団初の再演・県外公演となるもの。
 さいたまゴールド・シアターは周知のとおり、彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督蜷川幸雄が提唱した「年齢を重ねた人々が、その個人史をベースにした身体表現によって新しい自分に出会う場を提供する」との理念のもと、オーディションを経て2006年4月に発足した55歳以上の団員による演劇集団である。現在、団員数は42名、平均年齢70歳とのこと。

 蜷川幸雄は1969年9月に新宿文化で上演された現代人劇場の公演「真情あふるる軽薄さ」(作:清水邦夫)によって鮮烈な演出家デビューを果たしたが、「95kgと97kgのあいだ」は、まさにその「行列」の芝居の稽古をしている若者たちの前にかつて「行列」の芝居に出演していたという「一群」が現れ、彼らを率いる「青年」の号令のもと、目には見えない架空の砂袋を背に担ぎ、歩き始めるというものだ。

 「真情あふるる軽薄さ」は、私の世代にとっては伝説の舞台である。
 当時、田舎の少年だった私には新宿の騒乱ぶりはまさに遠い世界の出来事でしかなかったが、数年後、同じ新宿文化で唐十郎作の「盲導犬」や清水邦夫作の「泣かないのか泣かないのか1973年のために」といった蜷川演出作品を観て衝撃を受けた私は、ほんの少しばかり時代に「遅れてしまった」ことに切歯扼腕したものだ。

 さて、本作は、そうした蜷川幸雄の原点ともいうべき群集の演出そのものが見どころと言えるけれど、かつてその芝居に出ていたであろう、あるいはそれを観ていたであろう世代の人々が実際に舞台に現れること(それはまさに地の底からたち現れた幻影のようでもあったが)によって、時代と演劇との出会いというものを深く問い直すものになっていたように思う。

 さて、もう一つの見どころが、「さいたまゴールド・シアター」といういわば素人の集団をいかにプロの演劇集団に生まれ変わらせるかという戦いの記録でもあるということだ。
 「95kgと97kgのあいだ」というタイトルはよく考えられたものと思うけれど、号令をかける青年によって「30キロ!」「50キロ!」「95キロ!」「97キロ!」と次々に課題を与えられながらひたすら歩き続ける彼らは、そうした架空の「重さ」を想像力によって埋めながら身体に刻み付けることによって真の俳優集団に近づいていく。
 「95kgと97kgのあいだ」にある重さの違いを想像し、身体的に表現することがまさに俳優の仕事だからである。

 凡百の市民参加演劇との明確な差はそこにある。